【零度熱】



ジャリと、踏みしめた地面が音を立てた。
大股で歩くものだから、ますます砂利を踏みしめる音が大きく響くようで。普段ならば全く気にならない筈なのに。
深夜という今の時間帯と、周囲に誰の気配も無いという事だからか、よりその音が耳障りに聞こえた。
心なしか急いでいるせいだと思う。
時間帯もあるが、何よりも汗をかいた今の体には夜の空気がより一層寒く感じられるからだ。
無意識に肌を擦り合わせてみても、気休めにもなりはしない。もっとと、肌が熱を恋しがっている。

恋次は軽く地面を蹴ると、塀瓦へと飛び移った。
硬い瓦の感触は先ほどの砂利道よりも硬く、もちろん自分の体重を受けて沈み込むわけも無い。次いで力を込めてそれを踏みしめ大きく飛躍すれば、身につけている死覇装の色と同じく自分の体までも暗闇に溶け込んだ様な不思議な錯覚を覚えた。
暗い空は黒一色。冷え込み痛いほどに澄んだ空気は吐く息を白く変え視界を曇らせてゆく。
ああ、こんなにも寒い夜は雪でも降りそうだ。そんな事をちらりと考えた。

「っ、と」

僅かに灯る隊舎の明かりを頼りに、恋次は六番隊の敷地内へと降り立った。
気持ち急いでいたせいなのか、予想した場所よりも随分と足場の悪い場所へと着地した恋次は崩れるように膝を付く。
負荷のかかった太股をさすりながら顔をしかめる。こんな事など誰かに見られてしまっては副隊長の威厳が台無しだ。だが周囲には人影どころか気配すらない。
これ幸いと今の失態を無かった事にして直様立ち上がった恋次は、そのまま隊舎の廊下を小走りに通り抜けた。



黒い闇からふわりと舞い降りる雪がゆっくりと地面へと落ちて消えていったが、その事に恋次は気が付かなかった。



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「あれ、隊長?」

執務室から人の気配がする事に疑問を持った恋次は怖々扉を開けて中を覗きこむ。
案の定灯りに満ちた執務室には上司である白哉が机について筆を動かしている姿が目に入った。
不思議そうな顔をして入ってくる恋次に、視線だけをそちらにチラリとだけ向けただけの白哉は未だ筆を止める事はない。
恋次は再び首を傾げた。理由は簡単な事で、夕過ぎに白哉は直帰する予定で出かけていたからだ。
つまり外出先から直接帰宅するので、この部屋には戻らないという事。

「…まだ終っておらなんだか」
「え、ああ…まぁ、はい」

困惑のまま黙って様子を伺っている恋次に白哉が声をかけても、疑問の方が勝っていた恋次の頭はただ曖昧な返事を返す事しかできない。むしろ今問われた台詞は自分が言うべき台詞なのではないのだろうかとも思えてくる。
しかしながら、自分の机の上といえば未だに書類が散らばったままであり明かりも消してはいかなかった。例え白哉が今この場所にいなくとも、途中で抜けたと言わざる終えない現状である。
今日の仕事量を思い出せば、普通通りに業務を行っていればこんなに遅くまで仕事をする事など無く、それなのに未だ終わっていないのかと、もしや適当にだらだらと残業を引き延ばしていたのではないのかと、そう白哉は暗に言いたいのだろう。
怖い上司が帰ったとばかりにすっかり気が抜けていたようだと、恋次はようやっといずまいを正すように背筋をピンと伸ばした。

「すんません、…書類を持ってた先で捕まっちまったんですけど後は片付けだけっス。隊長こそ、何でまた戻ってきてまで書類を?」
「明朝納期の書類を帰り際手渡された故」

そりゃぁ運が悪い。そう恋次が大げさに苦笑いを浮かべる間も白哉は手を休める事は無い。流れるように動く筆が紙の上を滑るその速度は普段よりも速いのに、歪みなく美しい文字は相変わらずだと片付けを始めた恋次は関心した。
もう時間は深夜を回ろうとしている。ますます外は冷え込み、気温は零度に近くなっている事だろう。
広げたままの書類を束ね、筆や硯を引き出しに収め、資料や本を棚に戻してゆく。実は未処理の書類もあったのだが、そんなに時間もかからないものばかりだ。それは朝イチで片付ければ大丈夫だろうと後回しにする事にした。

ようは間に合えば良いのだ。そう思ってギリギリまで仕事を引き伸ばす自分と、時間外にもかかわらず職場に戻ってきてまでちきんと終わらせようとする白哉では、やはり仕事に対する意欲から何から何まで違うのだ。そう恋次は尊敬の念を持って白哉の仕事ぶりをチラリチラリと横目見ていた。


「恋次」

呼ばれたのは帰ろうかと思った矢先の事。すっかりと片付け終わった自分と白哉の間にはもう会話は無い。邪魔しては悪いなとそのまま一言声を掛けて静かに退室しようと思っていた恋次の下腹部が異様な音を立てた事に、初めて白哉はその手を止めて顔を上げたのだ。
その表情は嫌なものを聞いてしまったとばかりに少々不快げである。

「夕餉は」
「いや…食べそこなっちまって」

ぎゅるりと音を立て空腹の主張を繰り返す腹を宥めながら恋次は苦笑した。
こんなにも遅くなったのにも、夕食を食べ損なったのも、それもこれも、書類を持っていった先で捕まったせいだ。
渡さなければならなかった相手がタイミング良く鍛錬中で、書類を渡すついでに強引に組み合いに引きずり込まれてしまったからだと言い訳したいのだが、それを口にしてしまえばますます白哉を呆れさせるだけにしかならない事も分かっていた。もう笑って誤魔化すしかない。
食堂に行けば何か残りものがあるだろう。冷たい飯でも贅沢は言ってられない。できれば汁物と何かつまみになるものでもあればいいなと、そんな事が頭の半分を支配していた。

「5分もあれば終わる故、しばし待て」

てっきり呆れてそのまま帰れと言われると思っていた恋次に意外な言葉が返される。
腹をすかせた自分に対し白哉が終わるまで待てという事は、どこかに連れて行ってもらえるのだろうか。

…、とりあえず、寒ぃな。

白く曇りかけた窓の隙間から見える外の闇は、先ほどまでは降っていなかった綿雪で僅かに明るくなったような錯覚をさせるようで。
漆黒の黒を縁取るように、ゆっくりと落下する幾数もの綿雪が音も無く降り続く様を見上げた恋次は、空腹の腹をさすりながら明日の朝の冷え込みを考えて少し憂鬱になった。





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