▽リーマンパロ


あの男の意識が此方へ一度でも向けば、それで満足だった筈なのだ。
それ以上の発展など、望んでいなかった筈なのに。
それなのに。

「こんばんわ、お疲れ様っす」

あれから更に数日後、終電間近の閑散としたホームでぼんやりとしていると、ふいに声をかけられた。

「いつもこんな時間なんスか?」

自分よりも僅かに高い背丈。
赤い長い髪。
見覚えのあるスーツとビジネスバッグ。
違っている事といえば、その意識がハッキリと自分へ向けられている事くらいだろうか。

「お礼って言っちゃ、つまんねぇものですけど」

どうぞと差し出された缶珈琲の意味が分からず眉を潜めても、男は差し出した手を下ろさなかった。

渋々受け取った珈琲は常温に近くなっていて、僅かな熱を手のひらに伝えてくる。随分と長い時間待っていたらしい男の様子に、余計白哉は理解できなかった。

「お礼言いたくて。毎日、探してたんですよ」

そう言って男が笑う。



(これは、貴様のものか)
(えっ、あ!そうですけど…どこに…)

見知らぬ人間が自分の持ち物を持っているという困惑の方が勝っている男は、手の平にあるスマホと男を交互に見比べた。
複雑な顔をする男にその経緯を説明する気も起きなかった白哉は、押しつけるように携帯を渡したのだ。

そして、さっさと場を立ち去った。
少し遅れて引き留める言葉とお礼を叫んでいた男も全部無視して改札口を出て、帰り道を歩いて帰宅した。

白哉は満足していたのだ。
もやもやとしていた数日間の感情が晴れてゆくような。
大事な勝負事に勝った時のような。そんな不思議な充実感に満たされていた。

知り合いになる気はさらさら無く、目に入ったから拾ってやっただけだ。そうしてようやく相手の意識に自分が入った。
それだけで白哉は満足だった、その筈なのに。


「貴様もこの駅を利用しているのか」
「いや、俺はもう一コ先なんですけど、あの時はお礼すらまともに言えなかったし。ここで待ってたら会えるかなーって」

あの時此処で降りたのはやはり寝ぼけていたのだと言う。
会えて嬉しいと喜びの表情を浮かべる男を見ていると、胸の奥がむず痒くなるような感覚を覚える。
これまでは、堅い表情か寝ぼけている表情くらいしか見たことが無かった為だろうか。

「アンタが拾ってくれて、マジ助かったんス。ロックなんてかけてねぇし、携帯無くしたって気が付いた時滅茶苦茶俺焦ってて…」

最近の若者らしいくだけた喋り方だが不思議と心地良く耳に入ってくるのは何故だろうか。

『ーまもなく電車が到着しますー』

ホームに鳴り響くアナウンス。
一方的にしゃべっていた男は、次第に近づいてくる電車の姿と腕時計を見比べて慌てて頭を掻いた。

「あ、すんませんこんなに引き留めちまって」

どうやらこれから来る電車に乗って帰るらしい。
唐突に切れた会話と反らされた視線に、不意に湧き上がった感情に白哉は戸惑う。


「俺、恋次っていいます。えっと、名前…」
「…白哉だ」

びゃくやさん。と繰り返すように小さく動いた唇と、嬉しそうに細められた目じりに目を奪われる。

「今度、飲みに行きませんか?お礼に奢らせて下さい」

もし迷惑じゃなければ、という遠慮を含んだ誘い。
そんな事をされるのは迷惑だ。
知り合ったばかりの人間などと行く気も無い。
そこまでされるほどの事はしていない。
そもそも、そんな気も暇も無い。

そう、断ればすぐに引き下がっただろうに、頷いてしまったのは、何故だろう。

「俺の携帯赤外線ついてなくって。あ、番号教えてもらっていいスか?」

ディスプレイの上を慣れた指が動く。
すぐに、内ポケットに入っている白哉の携帯がワンコールで切れた。

「それじゃ白哉さん、また電話します」

軽く頭を下げて電車に乗り込んだ男が見えなくなるまで見送った白哉は、すっかり冷えてしまった缶珈琲を開けて一口含んだ。
独特の甘みが口の中に広がり、白哉は眉をしかめる。

縁とは繋がってしまえば酷くあっけないものだ。
自分の携帯を取り出せば、あの男と同じものがぶら下がっている。
知り合う気など全く無かったというのに、今この状態はどうだろう。
以前より知っていたのだと伝えたならば、あの男はどんな顔をするだろう。

着信画面を見れば、着信アリの画面に登録の無い数字の羅列が並んでいる。「登録しますか?」の操作に合わせて「れんじ」と入力した。
登録の動きに合わせて揺れる不細工なマスコットが、白哉の手元で躍るように動く。
そのまま画面を操作して着信履歴を開いた。

「私だ。週末届けるように言っていた車だが取り止めだ。また連絡する」

あれほど嫌っていた筈なのに、一体自分は何をしているのだろうか。

こうして、白哉の電車通勤はもう暫く続く事になるのである。







fin...


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