▽リーマンパロ


やはり偶然はそう何度も起こるものでは無いのだ。
あれ以来、偶然社内ですれ違うという事はおろか、通勤途中でもそれは発生しなかった。
最初の頃は少しだけ気にかけていた白哉も次第にその事を忘れてゆき、読みかけたままになっていた本も読み終えてしまった。

日も沈み、大きく切り取られた窓から見下ろす街は行き交う車や看板のネオンが眩しく煌めいている。

パソコンと資料とを睨みながら黙々とキーボードを叩き、取引先からのメールを返信し終える頃には、もう時計は深夜を指していた。
この所、忙しくなったせいか度を超して残業が続いていたが、それもこれもあのストラップを押しつけていった相手との事業が佳境を迎えているからである。

始まってしまえば早いのだが、その為の準備は膨大で。
相手先とのやりとりや子会社の発注、銀行と打ち合わせなど、部下が行う仕事の把握と資料、報告書の確認。それらをすべて頭に入れた上で数々の来客、会議、ミーティングを繰り返しその都度的確な指示を出さなければならない。

相手は十二分に準備を重ねても足りないほどのやり手である。全てを把握しておらねば都合の良いように飲まれかねない。気を抜く訳にはいかなかった。

今夜も終電には間に合わず、タクシーになるだろうか。
やはり近い内に車を届けてもらおう。そうぼんやり考えながら、白哉は帰り支度を始める。

裏口から社外へと出ると、外は幾分と風が強かった。
数日前には綺麗に見えていた月も今日は雲に隠れてその姿を見つける事が出来ず、ネオンの明かりが空に明るく反射している。
さて、どうやって帰ろうかという所。
風になびく前髪をうっとうしく思いながら、とりあえず駅方面へと歩き出してみる。
タクシーを探してみても、こういう時に限って空車ランプの車はなかなか横を通ってくれないものだ。
見上げれば、もう逆方面の電車がゆっくりとした速度で出発した所。

(まだ動いていたのか)

時計を見ればもう終電ギリギリの時間帯。だがもし便が残っているならば利用しても良いだろう。
そう判断した白哉は駅前で待機していた空車のタクシーを横目に、改札口へと続く階段を上っていった。

改札口の時刻表と時計を見比べてみれば、あと5分後に最後の電車が到着するらしい。
ホームへの階段を降りれば長く伸びたホームには数人といった所か、やはりこの時間であれば乗客は少ない。

これならば他人の枕がわりにされる心配はなさそうだと、過去の事件を思い出した。

電車の中であれほど気持ち良さげに他人に寄りかかったまま眠れる男を、貴重な読書の時間を潰された憎らしい者だと当初は思っていたのだが、日が経過した今はむしろ奇妙な体験だったのだと思うほどに変化している。
偶然にも社内ですれ違った事により、妙な親近感でも湧いたのだろうか。
仕事の繋がり以外で人と知り合う機会も減り時間に追われる毎日では、小さなハプニングも日々の刺激。こんな一方的な偶然も新鮮な体験に思えてくるのだ。

携帯からぶら下がる不細工なキャラクターも、今ではすっかり慣れてしまっている。
思っていたよりも知名度があった其れは、女性社員に見つけられる度に可愛いと声がかかったが、愛嬌はあるかもしれないが今でもこんなものが可愛いと露ほども思わない。


『まもなく、電車が到着します。お待ちの方はー…』

電車の到着まであと少し。
少し乾いた喉を意識して何か買おうかと近くの自販機の前に立った白哉は、硬貨を入れディスプレイをぐるりと見渡した。その時だった…。

やけに大きな音と共に、人の少ないホームに駅員の声が木霊し、ホームで待っていた人々がようやくといった足取りで乗り口へと集まってくる。
赤いランプが一斉に付いた目の前の自販機。あとは欲しい飲み物のボタンを押すだけだ。
だが、購入出来ますと訴えるボタンは電車が到着しても押される気配は無い。

「……」

こんな偶然、もう無いだろう。
もし会えたとしても話しかける必要の無い全くの他人。二度は偶然としてあったとしても、三度目など。
そう忘れかけていたのに。

白哉は自販機に体を向けたまま、ゆっくりと今から自分も乗る電車のその乗り口へと視線を動かした。
正確には、到着の音で裏に隠れていた人物が、乗り口へと移動する為に、白哉のすぐ横を通り過ぎたのが視界の端に入ったのを目で追ったからだ。

『まもなく出発します。お急ぎ下さい…』

けたたましく出発を知らせるサイレンの音で我に返った白哉は、それを追うように電車に乗り込んだ。
硬貨を入れたままの自販機は購入される事は無い。待ち人がいなくなった無人のホームに、赤々とランプの付いた自販機だけが残っていた。


(偶然とは恐ろしいものだ)

外を流れる景色は暗く、車内の明るさに反射して目の前の窓ガラスは鏡のように自分の姿を映し出している。
誰も座っていない側のシートに腰掛けた白哉は、妙な感動と共に、向かいのシートの端に座る人物を凝視していた。
意識して電車を利用していたと云っても、会いたいという願望を持っていたわけではない。


濃いグレーのスーツに地味な色合いのネクタイが何とも似合わないと思うのは、その派手な頭髪のせいだろうか。
相変わらずスマートフォンに視線を落とす男は白哉の視線には全く気が付いていない様子だ。
思い出したように窓の外の景色を眺めては、欠伸をかみ殺しつつ暇そうに手元を動かしている。

操作に合わせてゆらゆらと揺れるその不細工と目が合ったような気がして白哉は視線を反らす。
街灯とネオン、家の灯りと車のライト以外は漆黒に隠れ、今どの地域を通り過ぎているのかすら曖昧になる。
乗ったまま駅を1つ、2つ過ぎ去る度に乗客は減ってゆき、とうとう電車内の乗客は白哉と目の前の男だけになっていた。


姿勢を正し本を読む白哉とは反対に、俯いたまま時折不安定にゆらゆらと体を揺らし始めた男は、操作していたスマホを脇へ置くと、ついには動かなくなる。

もしや毎回寝ているのかと呆れるほどの熟睡っぷり。
恐らくこのまま起きないだろう。
そう思うと、ついつい観察するように凝視してしまうのは仕方の無い事なのだ。


次の駅に到着する事を知らせるアナウンスが車内に響く。
ゆっくりとブレーキをかけ、停止する振動で、支えの無い不安定な男の体が大きく揺らいだ。


「っ!あれ、やべぇ…」

垂れかけた唾を手の甲で拭いつつ勢い良く顔を上げた男は、慌てて左右を見回した。鞄を両手に抱え立ち上がると、開いた扉に飛び込むようようにして電車を降りたのだ。そのまま駆け足で改札口へと消えてゆく。

…それは、白哉が降りるべき駅だ。

駆けてゆく男を目で追って、白哉はゆっくりと立ち上がった。
ここは、あの男の降りる駅では無い。
もしかすると、あの時は寝たまま乗り過ごしただけで、実は降りるべき駅は一緒だったのだという可能性もあるのだが、まさか。
不審に思いつつふと前を見れば、誰もいなくなった座席に横たわる不細工なアレと、目が合ってしまった。

プレミアがつくほどのレア物だと言われる不細工なキャラクターと、それにくっついているスマートフォン。
間違えようもないソレが白哉をしっかりと見つめ返し、何かを訴えている…ような気分になる。




出発を知らせる音と共に扉が閉まり、再び電車は動き出す。
ホームに降りた白哉の手のひらの中には、見慣れた不細工と、他人のスマホ。
あの男の個人情報が詰まった大事な物が、今手の中にある。
これが、これまでも全て偶然と言うのだろうか。

まるで何かに引き合わせられるように縁が繋がってゆく。
しかも白哉の方から望まぬまま一方的にだ。それが妙に腹立たしい。

駅の職員に忘れ物だと預けてやる前に、絶望的な表情でその男がホームへと戻ってきたのも、それも偶然だというのだろうか。

声をかけずに職員へ届けていても、おそらくその落し物はすぐに持ち主へと戻っていただろう。
そのまま知らぬ顔をして傍にあるベンチに置き去りにしてやっても直ぐに見つけられただろう。

だが…。
誰かに言付けるなど、その時白哉の選択肢には無かったのである。
どこかに落ちていないかと視線を彷徨わせる男の前へ歩み寄ると、掌を前に突き出した。

「…これは、貴様の物か」

言葉に反応して、男の視線が白哉を捉える。
ようやく相手の意識が此方へと向けられた事に、互いの視線が交わった事に、白哉はただそれだけの事に満足した。




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