▽リーマンパロ


それから数日後の事である。
エレベーターの到着を知らせる音と共に扉が開き、入ってきた人物にすぐ気が付いたわけでは無かった。

キッカケは見覚えのある不細工なものが視界をかすめた事。
ふと先日の嫌な出来事を思い出し、同時に肩を占領した若者の横顔がフラッシュバックする。
気の抜けた寝顔と、長く鮮やかな紅髪。うっすらと漂うシトラスの香りがまるでつい先ほどの事のように蘇ってくるのだ。

その他の人間に混じって素知らぬ顔をして同じエレベーターに乗り込んできた青年は、奥にいた白哉とは反対に入り口近くに立った。
少しばかりはマシに着こなしているスーツにくたびれたビジネスバッグはあの時と同じもの。
しっかりと首元まで閉められたネクタイとアイロンのかけられたシャツ。少し緊張した面影が別人のような印象を受けるものの、やはり同じ人物だ。


もしや、自分の会社の社員だったろうかと記憶を巡らせても思い当たらず、その内に青年は此方に目をやる事も無くさっさと違う階に降りて行ってしまった。
最後まで此方の視線に全く気づきもせずに、実にあっさりとした…というか、ごくごく普通のすれ違いであった。
一人残され最上階へと到着した白哉は、閉まったエレベーターの扉を振り返る。

偶然とはこういう事を言うのだろう。
そんな感動にも似た感情と共に、不愉快な思いが白哉の胸の内に燻ぶっていた。
凝視していたというのに、気付く所か振り返りもしなかったからだろうか。
だが気がついた所であの男は半分寝ぼけていたではないか。覚えている筈が無い。
白哉ですらあの不細工なストラップと赤い髪の組み合わせを見たから思い出したようなもので、自分にとっても相手にとっても視界の端に入っただけの所詮他人以下。その他大勢である。

別に声を交わしたいという気も無い。これを機会に知り合う必要も無いだろう。
だが、触れた肩の重みと香りをこちらが強制的に覚えてしまったにもかかわらず、相手が全く気づきもしないというのは、何とも不愉快であった。


偶然というのはそう何度もあるものでは無い。
ここ数日の間に2度すれ違い、それを2度とも白哉が覚えていたというだけで、それが何だと言うのだ。
たまたま相手と自分の行動がほんの数秒重なっただけ、それだけだ。
そうしてその不愉快な感情に区切りをつけた白哉は、社長室の扉を開く。
窓から見下ろした歩道を行き交う人々は多く、視界に入るものの記憶には残らない。
今日一日だけで何人とすれ違っただろう。何故あの青年だけが記憶の端に何時までも居座っているのか理解できぬまま、白哉は回ってきた資料に目を通し始めた。

例えばあの電車内での事を互いに覚えていたとして、あのエレベーターの中で、あの男が自分に気がついたとしたらどうだろう。
会話するにしても、一体何を?
さしさわりない挨拶。無難な話。職場で会ったのだから仕事の話題。電車内で会ったのだから通勤の…そんなものを聞いて何の得がある。
そもそも、人の肩を枕代わりに使うという非礼をしたのはあの男の方だ。
数日前の数分間。そんな事を今更蒸し返して謝罪してほしいのか、そんな事など意味が無い。

ならば、どうしてこんなに気にかかるのだろうか


結局、総務課に問うてみたものの部署も名前すら分からない「赤い髪の若い男」というその青年の所在は結局分からなかった。
会社には来客も多く、何よりも社員自体多いのだ。
おそらく来客の一人ではないかと答えた部下に、それ以上調べさせる気も起きなかった。
そして、その日は遅くまで残業になる事は無い。

昨日と同じホームから電車に乗り込んだ白哉は人を避けるように入り口付近に立った。
けたたましく鳴る警笛に、ゆっくりと閉じる扉。
流れ始めたホームの人混みを、そこを歩く人の波をまるで誰かを探すように眺めていたのは無意識の事である。




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