神獣の呪いと鬼神の想い人について 四




マカロン、桃のタルト、胡麻団子、フロランタン…。餡子入りのパイから数えてもう何種類目になっただろう。
元々鬼灯が白澤の店を訪れる用事は主に薬の受け取りや注文をする時だけだ。その頻度は通常であれば月に1度あるか無いか、お盆や年末などが絡んだ繁忙期には2、3ヶ月間が空いたりもする。
月日だけ云えばあれから1年を越える程に経過していたが、白澤と鬼灯の関係が元どおりになる兆しは無かった。

「…此処は薬局ですか。スイーツ店ですか。白澤様は薬剤師ですか、パティシエですか」
「どっちも兼ねれば女の子に大好評だよ?」
「まぁ…それはそうですけど…」

室内に充満する甘い香りに若干うんざりしている桃太郎の言葉を軽く受け流した白澤は、次の菓子のレシピをインターネットで検索している所だ。
桃の果汁を練り込んだクリームを挟んだクッキーを、小分けの袋に詰める作業を続けている桃太郎は、山盛りに積まれたそれらを眺めて複雑な気持ちになる。

「薬も菓子も、基本は同じようなものだしね」

どちらも体の内に入るもの。厳選した素材、決められた分量と手順を守って愛情を持って作れば良いものが出来るのだと、白澤は今回の菓子の出来栄えに満足して鼻歌を混じらせる。
鬼灯の呪いを解く為に始めた菓子作りだったのだが、練習や試行錯誤の結果として大量に出来上がるその菓子を毎回男2人が食べきれる訳も無く、鬼灯に女性客へ食べさせるのだと言った手前捨てるのも勿体無いからと、来店する客に茶菓子として出してみた所たちまち評判になっていったのだ。

元々女性客の多い店だ。薬の受け取りついでに雑談する客も多い。
女癖が悪いという欠点を除けば店主は大変人好きのする性格であったし、体調不良の相談に無料で応じてくれて更に菓子まで手作りというサービスが女性心をくすぐったらしく、徐々に噂が広がって今ではその菓子を目的に足を運ぶ者までいる程だ。
呪いを解く為に時間を割いている為、女性遊びも最近は控えぎみになっている事がより良い効果を生んでいるらしく店の売上げは右肩上がり。それはそれで良い事ではあるのだが、本来の目的から少々脱線しているように思えるのは気のせいだろうか。
うじうじ悩み続けるタイプの性格では無い白澤は、もう最初の頃のような挙動不審っぷりや落ち込んだりする様子からは脱したようだが、何となく桃太郎の目には現実逃避をしているように見えてしまうのだ。

もちろん、鬼灯が店に来た時には実践できる事はやっている。
それでも、初期の頃のように5回も6回も繰り返す事はせずに、1回試してみるだけ。
良く言えば様子見だが、悪く言えば危機感が薄れている。
異常な事態が日常になりつつあるというのは、いかがなものだろうか。

「のんびり待つしかないからね」

お気楽な笑顔を向ける白澤の様子に、他に良案など浮かばない桃太郎は従うしかない。
本当にこのまま待っていて、ある日突然鬼灯が元に戻る事などあるのだろうか。

呪いの影響が出るのは白澤を前にした時だけ。
だからこの事を知っているのは白澤の側にいる自分だけで、例えばお香やシロ達、閻魔大王など地獄側はその事を知らないし、気づかない。それは別に良いのだ、騒ぎを大げさにするものでは無いとも分かる。

(でも本当に、これで良いんだろうか…)

漠然と嫌な予感がするのは凡人が故の杞憂だろうか。有限の時間の流れの中に身を置いていた人間ならではの感覚なのだろうか。
白澤には白澤の考えがあるのだろうが、何故こんなにも余裕を見せていられるのだろう。

「あっ、桃タロー君!コレ可愛い!!」
「白澤様、それは菓子じゃなくてスイーツデコって言う雑貨ですよ」
「そうなの?凄いねぇ、本物みたいだねぇ」

やはり神様の心理など一介の人間がはかり知る事など出来はしないのか。
目を輝かせながらパソコンの画面を見入る白澤の様子に、桃太郎は一抹の不安を抱きつつも、己の仕事を続けるべく手を動かしたのだった。






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夜も耽った桃源郷は生き物も寝静まり、虫の鳴き声だけが微かに響いている。

「うん、うん、…そうだね。ごめんね」

携帯を耳に当てて通話中の白澤は、謝罪の言葉を何度か繰り返しつつ、人の気配の無い夜道を歩いていた。
相手は、”最近遊んでくれていた女性”なのだが、電話越しの彼女の声は酷く怒っているようだ。
それもこれも、ここ数日の内に何度もかかってきたお誘いを白澤の方が全て断ってしまったからというのが原因で、なだめるように謝罪を繰り返したものの最終的には切られてしまった電話の終了画面を眺めて白澤はため息を吐く。
仕方ない。そう言い訳するしかなかった。

すらりとした体格、真っ直ぐな黒髪は肩の辺りで短めに整えられ、切れ長の瞳は可愛らしいというよりは美人の部類に入る。
そんな綺麗で魅力的だった筈の彼女の姿を思い出そうとするのだが、似ても似つかない違う鬼の姿がその上から重なってしまい、彼女が霞んでしまうのだ。
その違う姿が誰の事かなど考える必要も無く、それどころか実を結ばない寂しさを紛らわす為に彼女に慰めてもらっていたという自覚すらあった。

今までは付き合う女性が複数になっても気にもしなかったし、その事が原因でフられてしまっても後悔は無かった。
それは全て平等に愛せる自信があったからこそできた事で、誰かの代わりとしてしか愛せない今の状態で他の女性との遊びを続けても、相手を悲しませてしまうだけだ。

頭を掻き毟ってもモヤモヤとした気持ちは晴れる事は無い。女性に頼れなくなった今、一人寝を慰めてくれるのは酒だけだと歩を進めた白澤は、大吟醸の香りを漂わせる滝へとたどり着いていた。
途絶える事無く溢れる大量の酒は、飛沫を上げて流れ落ちてゆく。立ちこめる芳醇な香りは弱い者ならばそれだけで酔ってしまう事だろう。
普段なら色々な酒をちょっとづつ楽しんでチャンポンするのが好きだ。だが今は強い酒でてっとり早く酔いたいと思う。
滝の縁に腰掛けて持参した器で酒を掬い、強いアルコールが喉を焼く感覚を味わいながら、ひと思いに一気に煽った。

「あー、もう…欲求不満で爆発しそう!!」

大声で叫び、再び2杯目3杯目と続け様に一気に胃へと流し込む。急激に体内を巡るアルコールに体が悲鳴を上げるが、そんな事気にしない。
何も敷いてない芝生の上にゴロンと寝転がると眼前に広がる夜空がぐるぐると回っていて、それはそれで面白い光景だと一人で笑い声を上げた。

「…どうしよう」

笑っていたかと思えば顔を両手で覆ってさめざめと嘆いてみる。
あっと言う間に立派な酔っぱらいが出来上がっていたが、こんな場所では迷惑をかける者も相手をしてくれる者もいない。それが今は気楽で良かった。

「うなじ…、エロ過ぎるヤバい」

揺れる視界を閉じれば、脳裏に映るのは今日見かけた鬼神の後ろ姿だ。
相変わらず時間が空いた時には地獄へ行き、鬼灯に声を掛ける事を続けていた白澤の前に浴衣姿で現れた鬼灯は、濡れた髪をタオルで拭きながら自室へ続く廊下を歩いている所だった。
普段自室に備え付けの風呂に入っている筈だが、どうやら今日は大浴場の方を利用した帰りらしい。

ふわりと肩から立ち上る湯気、湯で血色が良くなりほんのりと染まった肌、濡れた首筋、歩く度に裾からチラ見えする生足、浴衣一枚しか身につけていない無防備な恰好の鬼灯が白澤のすぐ横を通り過ぎるが、やはり此方には気付かない。
その瞬間に僅かに鼻を掠める石鹸と汗の匂いに、ぶわりと全身の毛が逆立った気がした。

「僕…もう女の子で勃つ自信無い…」

正確には、あの鬼以外でという意味だが。
どんなに美しく着飾った女性よりも素肌を晒して微笑む妖艶な美女よりも、あの鬼に欲情するようになってしまったなんて、本当に救いようが無いではないか。
早鐘を打つ脈と急激に上がる体温は酒に酔っているからだが、それ以外の理由で下半身に集まる熱を自覚して落ち着かせるように深呼吸する。

もしもの話で、あの鬼を押し倒してしまえばどうなるだろう。
何も反応しない鬼灯の腕を掴んで引き倒して、押さえつけて口付けて肌に触れてもまだ無反応でいられるだろうか。
例えば、自分の持てる封じの札を総動員して動きを奪った上で、衣服を剥ぎ取って日焼けしてない肌に舌を這わせて、誰も触れさせた事が無い場所を無理やり開いて暴いたらどうなるだろう。
それでも気が付かないだろうか、記憶に残らないだろうか。
それともその瞬間に呪いが解けて取り返しのつかない事になるだろうか。

「最低だ…」

それは実行できない、してはいけない。
分かってはいるのに、ずっと見続けていればモフモフを愛でる優しい目や、ふとした時にどうしても色香を感じてしまう。
書類を読む時に艶やかな髪を耳にかける仕草。酒を飲む時の上向きに傾けた顎のラインやゆっくりと動く喉元。休憩時、眠そうに瞬きを繰り返すトロンとした表情と、目元を縁取る長い睫毛。疲れ切った仕事終わりに吐く安堵を混じらせた深い溜息、僅かに漏れる声。
それらを糧に膨れ上がってゆく妄想は、止まる所かどんどん溢れ出して収集がつかない。
好きだという感情を抱いているのだから愛欲が性欲に繋がる事は別に異常な事では無いが、だがこれでは桃太郎の言う通り立派なストーカーである。

いつまで待てばいい。
どうしようも無くなって、欲望に任せて衝動的に押し倒してしまうのが先か、解けるのが先か。そんな事を考えるようになってしまうなんて。
気は長い方だと自負している。何年でも待とうという覚悟もあった筈なのに、たかが1年そこらしか経過していないのに確実に追いつめられている事をもう認めるしかなかった。

「キスしたい…抱きたい…」

酔ったままごろんごろんと芝生を転がり続ける白澤は、再び頭を擡げる黒い感情を誤魔化すように、半ばやけくそになって酒に溺れた。







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ポケットから感じる振動音と着信音に、泥酔して沈んでいた意識が現実へと引き戻される。
寝返りを打つと自棄酒の影響からか酷く頭が痛く、起き上がれば吐き気を催してしまいそうだ。
今何時だろうと考えても山の中では分からない。だが空はまだ暗く頭上の月は少しだけ山の淵にかかっている事から察するに、寝ていたのは2,3時間といった所だろうか。

そう考えている間にも、ポケットの中身は振動を続けている。
酔いの睡眠を邪魔されて起き上がるまででも暫くかかったのに、一体誰だろう…。
そう携帯を取り出して画面を開くと、暗闇に慣れた目に液晶画面の明かりが眩しくて、白澤は瞬きを繰り返しながら目を窄めた。
携帯に小さく写し出される時計の数字はやはり深夜の時間を示している。いや、そんな事よりも…。

「…鬼灯…」

大きく映し出された名前に、胸が高鳴った。
迷わず通話ボタンを押して耳に当てる。

「…何?」
「寝てましたか」
「何時だと思ってんだ、まだ仕事してんのかよワーカホリック」
「いえ、仕事はもう終わっています」
「あっそ、何か用?」

仕事が終わった事は知っているのに、電話してくれた事がたまらなく嬉しいのに、それを全部隠して嫌悪感のあるフリをする。そうして促す間にも脳裏を埋め尽くすのは少し前に見かけた湯上がりの浴衣姿だ。
こんな時間ならもう寝ていてもおかしくないのに、何の用だろうか。

「別に用なんてありませんよ」
「え…?」
「今まで散々其方の都合で電話を掛けて来たでしょう、ちょっとした仕返しです」

淡々と事務的な口調で話すその声とは対照的な内容に、きゅんと胸がときめくのは決して錯覚では無い。
何コレ。分かりにくいけどもしかしてデレてる?
あの鬼灯が僕に用件の無い電話をかけてくれた…?本当に?
「睡眠を妨害されて嬉しいですかドMの白豚さん」
「迷惑でしかないよクソ鬼神…」
「それは良かったです」

ああもう…なんて反則だ。
今は何をしてるの?
まだ浴衣姿のままかな?もうベットの中かな?
もしかして寝る前に僕の事を考えてくれたの?
そんなストーカーじみた疑問ばかりが喉元まで競り上がってきて、なけなしの理性で押さえ込む。
熱くなる顔を手のひらで押さえて深く息を吐いた。

「それはともかく貴方、来月の大運動会に不参加とはどういう事ですか」
「ああ、…あいにく都合が合わなくてさ。桃タロー君と兎達は行かせるから大丈夫だろ。後はそっちの救護班でカバーしてよ」
「貴方、去年も不参加でしたでしょう。責任者が毎回不在なのは困ります」

毎年行われている運動会で極楽満月は救護要員として参加している。
今回も予定通り鬼灯の方から極楽満月へ出向要請があったのだが、白澤はその書類に不参加と書いて送り返していたのだ。
もちろん都合が合わないというのは建前で、本当は大勢の前で鬼灯と顔を合わせるのを避ける為だ。未だ元に戻る兆しの無い状態では、大勢の知人がいる中で対峙した時どうなってしまうか予想が付かない。
会場で会って無視されるだけならまだ良い。例えば誰かが白澤が会場にいる前提で鬼灯へ話題を出したその瞬間に大勢の獄卒がいる前でフリーズしてしまったり、運動会そっちのけで突然閻魔殿へ戻ってしまう可能性だってある。
同じ理由で、定期的に行われる薬学の講習会や研究会、鬼灯が興味を持ちそうな場所への参加は極力避けていたが、その事がこの鬼には気に入らないらしい。

「一体何をしているんです。本当に耄碌しましたか」
「そんなワケないだろ!」
「ろくでもない貴方の事ですから、理由はなんとなく想像できますけど」
「どういう意味だよ」
「薬屋が儲からなくて菓子屋に転職なさったそうですね」
「はあ?!」
「随分と部下の女性達が噂していましたよ。桃の焼き菓子。…発案者の私には相変わらず何も無いようですが」
「ああ、その事。だから女の子に出すって言っただろ」

恒例になった菓子の話題だ。
定期的に食べたいものは無いのかと聞いて来るのに、店に行っても一向にその菓子が出てくる気配が無いのは新しい嫌がらせですかと前回苛立ちを混じらせていた事を思い出す。
苛付いているという事は、関心が高い証拠だ。
もちろん鬼灯の為に作っているその菓子は、毎回店に来た時には新しく煎じた茶と共に出してはいるのだが、必ず一度は行う確認作業のせいで鬼灯はその事を覚えてはいなかった。

「…淫獣の割に今回は随分と長いですよね」
「は?何の話だよ」
「聞きましたよ。随分と御執心になっていらっしゃる女性がいらっしゃると」

誰の事を言っているのだろうか。
さっきまで電話で話していた女の子の事か。それとも今まで遊んでくれた数多の女性の誰かだろうか。

「いや、違うって…僕は…」
「私に聞くよりも、その方が望むものを聞いて差し上げれば良いでしょう」

だからもう私に菓子を聞いて来るな。
そう暗に匂わせる否定の言葉。
違う。本当は女の子にじゃない。お前が望むものじゃないと駄目なのに。

「けれど、装飾品よりも菓子が好きな女性とは珍しいですね…、はっ、貴方まさか年端も行かない幼女にまで手を」
「出してない!!」
「変態ロリコ」
「勝手な事言うな!!!」

ああ、それは誤解なんだ。僕が菓子を作ってたのは全部お前の為なんだ。
そう言いたいのに言えないもどかしさが胸を締め付ける。

いったい鬼灯は電話の向こうでどんな表情をしているのだろう。どんな心境で話しているのだろう。
お前は僕が違う女の子と噂になってても良いの?
お前は僕を好きなんだろう?なら、どうして他の子を応援するような事を言うの。
それでお前は平気なの?僕は来いって言えば今すぐにでも飛んで行くのに。

「…お前はさ、片思いでも平気なの?」
「はあ?何を突然…」
「お前、言ってたよな。いずれ機会があれば告白したいって」
「貴方にとやかく言われる筋合いはありません」
「僕は好きな子には好きって言いたいし、抱きたい。それで向こうも僕の事好きだって言って欲しい」
「…それは貴方の脳味噌が下半身に付いているからでしょう」
「違う。それが恋って事だろ?」

お前はそうじゃないの?
会えばドキドキするし、会えない時だってずっとお前の事ばかり考えてる。
1年会えなくても、電話越しでしか話が出来なくてもお前は平気なの?何でもない事なの?
「…私は」

言いかけた鬼灯の声が止まる。

「私は、姿を拝見出来るだけで充分です。…それで幸せだと思っています」
「………」

充分時間をかけて聞こえてきた答えは、普段の鬼の姿とはあまりにもかけ離れた細い望みだった。
それ以上望まないとでも云うかのような淡い淡い望みは、まるで、叶わぬ恋だとでも云いたいのか。

「何ですか、笑いたければ笑え色狂い。私は貴方のように堕落して腐りきった性生活の方がよほど理解出来ませんよ。そんな淫獣が恋を語るなど、此方こそ爆笑してあげます」
「嗤笑の間違いだろ。つうか、朴念仁の爆笑なんて想像つかねぇよ」
「おや、見た事ありませんか?こんなに日々、明朗快活に生きているというのに」
「お前なぁ…」

相手が自分を見てなくても満足だなんて、話が出来なくても良いなんて。つい最近恋を自覚した自分とはまるで違う。
そんな些細な関わりだけで幸せだと言えるようになるまでに一体どれほどの年月が経過していたのだろう。

(何だよ。結局お前は僕に告白する気なんて無いんじゃないか)

鼻孔の奥がつんと痛んだ気がして、白澤は鼻を啜った。
遙か長い歳月を生きてきたが、これほどまでに想われていたのだと何故気づかなかったのか。
あの鬼はこんなにもひたむきに自分を想ってくれていたのに、一体自分は何をしていたのだろうか。
ああ、好きだ。好きだよ。僕だって好きだ。
言ってしまおう。呪いが発動したって何度でも言おう。解けるまでお前が好きだと言い続けよう。

「鬼灯、僕は…僕はお前が…お前の事が…」
「ああ、そういえば昨日の水羊羹は良かったですよ」

「…え?」

さして難しくもない簡単な日本語なのに。
唐突に耳に入ったその言葉の意味が、理解できなかった。

「ですから、昨日持って来たでしょう?手作りにしては悪くありませんでしたし…。まぁ、どんなクズでも、取り柄の一つくらいー…」

電話越しに話す鬼の内容が頭に入ってこない。
昨日?持ってきた?水羊羹?
「……え…、何の…話?…」
「昨日の事も忘れたんですかこの耄碌爺は。それとも帰り際に殴った衝撃が久しぶり過ぎて記憶が飛びましたか」

殴った?鬼灯が僕を殴った?
そんな事は無い。今日はともかく昨日はずっと桃源郷にいた。
地獄に立ち寄るどころか、桃タロー君と一緒に溜まった注文を片づける為に店から一歩も出ていない。もちろん水羊羹なんて作る時間なんて無いし、鬼灯の次の菓子はデコりまくったカップケーキだった筈だ。
本当に、一体何の話をしているのだろう。
ズキリ、ズキリと。まるで脈拍に合わせるように左手の傷が疼き始める様子に、嫌な予感がした。

「どうしたんです。まさか明日の約束まで忘れてるんじゃあるまいな」
「え…何…だっけ…」
「珍しく酒を飲もうと誘ってきたのは白豚さんですよ。全く、昨日の記憶すら無いなんて知識の神獣が聞いて呆れますね」
「……そん、な…」

そんな約束してない。
それは僕じゃない。
鬼灯に会いに行ったのも、菓子を差し入れたのも、酒を飲む約束をしたのも。帰り際に殴られたのも。
全部知らない。知らない知らない知らない。



”そのうち、記憶が勝手に補修した私を違う女に当てはめて、愛してしまうの”


ふと、脳裏に浮かぶのは、あの時の彼女の言葉だ。
そういえば、あの時リリスちゃんは何と言っていた?
あの呪いが進行すると記憶が次第に改竄される。想い人とは違う誰かを愛するようになる。そう言っていなかったか。
ならば鬼灯が、僕じゃない誰かを愛するようになるっていう事ー…?
「白豚さん?どうしました?」

どうしよう。コイツは一体誰を僕と認識してる?
一体誰を。誰の持ってきた菓子を食べて、誰と約束した?
聞き出さなければ、でもどうやって。
呪いの話を切り出せば、そこで鬼灯の思考が止まって無かった事にされてしまう。

「オイ白豚。無言電話を続ける気なら切るぞ。白豚、聞いてますか?」

とりあえず会話を合わせて、誰なのかを聞き出さなければ。いやでも、僕と約束していると思い込んでいる鬼からどうやって聞き出す?
その相手を特定できたとして、それからどうする?
明日、鬼灯は僕だと思い込んだ違うだれかと出かけて行くのに?
今までのように悠長に経過を観察するのか?
アイツが他の誰かに心移りするのを見守るのか?
「そんなの嫌だ」
「は?何か言いました?」
「ごめん、僕ちょっと急用が出来たから切るよ。それじゃね」
「ちょっ、一体何の…」

訳が分からないと戸惑う声が聞こえたがそんな事を気にかける余裕なんてもう無い。
何年、何百年と待つ?黙って見守る?冗談じゃない。
鬼灯が僕じゃない誰かを慕うなんて。
嫌だ。そんな事嫌だ。許さない。

通話を切ったその指で電話帳を開いた。
大量に保存された女の子のフォルダから、目的の名前を探してスクロールする。順番に並んだ一覧の一番下あたりに見つけた名前の発信ボタンを押して耳に当てる。
聞こえるのは、国際電話独特のコール音。

本当は電話したくなかった。
下らないと最初に吐き捨てた手前、きっと笑われてしまうから。
相手は誰なのかと逆に問い詰められ、この先数百年ネタにされるばかりか、下手をすれば世間にあっという間に広まってしまいそうだったから。
だがそんな事、もうどうだっていい。
そんな事を心配している時期などとっくに過ぎてしまっている。

「お願い、出てくれ!」

時差は約8時間。今此方が深夜ならば向こうはきっと夕刻か夜に入ったばかりだ。
活動的な彼女の事。どこかに出かけているのかもしれないし、電話に気がつかないかもしれない。それでも祈るような気持ちで待つ。
十回、十五回、二十回…。

「…Hello?」

聞こえてくるのは鈴音の様な女性の声。ざわざわと周囲がうるさい事から、やはり外出しているようだ。

「リリスちゃん!僕だよ」
「あら、白澤様?…お久しぶりねお元気?」
「ごめんね急に。実はリリスちゃんに聞きたい事があって…」
「ごめんなさい。デートのお誘いなら何時でも大歓迎なんだけど、今ちょっと忙しいのよ。また明日にでもかけ直してもらえないかしら?」
「それじゃ間に合わないんだ!!」

思わず声を荒げた白澤の普段らしからぬ様子を察したのか、リリスは少しだけ待っててと告げる。
電話を離し誰かと話している声が電話越しに遠く聞こえて、移動しているらしい靴音が暫く続いた後、静かな場所で改めて彼女は電話に応じてくれた。
もちろん、手短にね。という警告付きで。

「あの呪いを解く方法を教えて欲しいんだ」
「呪い?呪いってどれかしら?」
「前に僕の店に来た時にリリスちゃんが見つけた御札だよ。ほら、あの…恋の呪いの!!」
「恋…?…ああ、あれの事。あら、もしかして使ってしまわれたの?」
「え、いや……うん…」
「あら、いやだわ」

彼女は元々誘惑を得意とする魔女だ。そんな札に頼らずとも自らの力で相手を振り向かる事こそ楽しいのだと豪語するリリスにとって、同じ匂いのする白澤がこの札を使った事が意外だったらしい。
驚きの声の中に軽蔑と含みを含んだそれは、呪いの札の前の持ち主であったろう彼女の話をした時に聞いた声そのものだった。

「ごめんなさいね。白澤様は興味が無さそうだったから言わなかったのだけど、今度そちらへ伺う時に、回収させてもらおうと思っていたのよ」
「回収…?そんなにヤバい札だったの?」
「元々は弱い呪いの札だし、ジョークグッツくらいの効果しか無いものよ。だけど、ちょっと問題があって…」

そうして彼女の口から語りだしたその話は、白澤の予想していた事とは違うものだったのだ。

「最初は若い娘達向けのおまじないの類いで売り出したの。使い方は前に言った通り。…だけどね、宣伝が上手く行かなかったのと変な噂が広まってしまって全く売れなくなってしまったのよ。血を1滴代償として使用する所までは合ってるんだけど、それを意中の相手に使用せずに、ずっと持ち歩く娘が続出したの」

まるでお守りみたいにね。まぁ、それを求める娘達って内向的な性格の子が多かったから…。そうため息をつくリリスの言葉は、まるで世間話をするかの様に楽しげで軽やかだ。
それを黙ったまま聞く白澤の背を、嫌な汗が流れてゆく。

「しかも、他人の血が付着した使用済みの札を譲り受けて、更に血を足せばより効果があるって根拠の無い噂が広まって、より多くの血が付着している古い札が好まれるようになってね。何十人と正しく使われなかったその札が長い年月をかけて嫉妬や恨みのエネルギーを吸っちゃって邪気が漂う始末で、もう本来の目的での効果は望めないものだったのよ」
「それって…」
「使ったら、何が起こるか分からない」
「そんな!!」

あの札はどうだった。古くて皺だらけで決して綺麗な状態とは言えなかった。シミだと思っていたものが全部血液だったとしたら。あれは何人どころか、何十人分…しかも鬼灯に使った時は1滴どころか大量に塗りたくって使用した。

「あらかた回収したと思っていたんだけど、まだ残っているものがあったのねって思っていたのよ。白澤様はきっとこんな札には無縁でしょうから、後日改めてウチの部下達を連れて回収に伺おうと思っていたの。まさか、使っちゃうなんて思わなくて」
「解く方法は…あるんでしょ?」
「使ってしまわれたなら解けるまで待てば良いじゃない。正しく発動したんでしょう?嫉妬の強さと血が動力源みたいなものだから、きっと長くても数週間だと思うわ」

そんな事ない。実際はもう1年以上経過しているし、改善しないどころか記憶の改竄が進んでいる所まで来てしまっている。

「もう待てないんだ。今直ぐに解きたいんだ。色々試してみたけど駄目だったんだ。お願いだよリリスちゃん、一体どうしたら…」
「…そうねぇ…手っ取り早い方法が無くも無いのだけれど」
「何?それはどうやったらいいの?」

せっぱ詰まった白澤の声とは裏腹に、リリスの声はいつまでも笑いを含んだ軽い声だ。

「呪いを解く、一番簡単で確実な方法って言ったら白澤様もご存じでしょう」

一番簡単で確実な方法。
それはー…。


「術者の命を奪うか限り無く弱らせる。誰でも知っている解呪の基本でしょ?」

くすくすと電話越しに聞こえる声が遠く耳に響く。
それは、呪いをかけた術者である白澤が瀕死か、死ねば解けるのだという意味だ。そんな事知っているさ。そう言いたいが声に出ない。
元々死の概念が無い白澤は、金棒で頭を潰されても心臓をくり貫かれても再生する不死の存在だ。
例え瀕死の状態と云えるほど肉塊にされても人の形を保っていなくとも、ものの数分もあれば元に戻る白澤にその方法は使えない。
仮にもし死ぬ方法を知っていたとしても、それは鬼灯が元に戻る事と引き替えに二度と会えなくなってしまうという事ではないか。
人間のように輪廻に入る事すら叶わない永遠の別れ。それこそ本末転倒だ。

(でも、明日アイツは…)

僕じゃない誰かと出かけてしまう。
僕じゃない誰かを見るようになってしまう。
僕じゃない誰かに心変わりしてしまう。
僕じゃない誰かを愛するようになってしまう。

そんなの見たくない
そんなの許さない。
絶対に、それは成ってはならない。


桃源郷全体に、強い風が吹き抜けた。
ざわりと木々が揺れ、水面が浪打ち飛沫が上がり、眠っていた鳥達が一斉に暗闇へと羽ばたく。










「うふふ…まぁ、そんな怖い事しなくたって方法が…あら、白澤様?もしもし?白澤様?どうなさったの?」

リリスの声はもう白澤には届いていない。
柔らかな芝生に落ちた携帯は暗い夜空の元で、ディスプレイの光だけがぼうっとその存在を主張していた。
やがてその光も消えてしまえば、夜の森に埋もれた小さなそれを見つけ出す事は困難で、それを探しに来る人影も無かったのだ。











「…っ、はぁっ、はぁっ」

息が切れて呼吸が苦しいのもかまわずに、白澤は閻魔殿の長い廊下を全速力で走る。
可愛らしい鬼女がすれ違うのも構わずに鬼灯を探し回った。

勢い良く飛び込んだ私室には誰もおらず、第一補佐官の執務室や閻魔大王のいない薄暗い法廷を横切る。
足がもつれて転びそうになるのをなんとか建て直し、最後に向かったのは金魚草の庭だった。
前回、桃太郎に連れて来られた時と全く同じ状況で、あまたの金魚に水をやる後ろ姿を視界に入れて立ち止まる。

「鬼灯」

声をかけても、振り返る事は無い。
地面に降り立ち、1歩1歩ゆっくりと近づいた。
前回は僅かに振り返ってくれたのに、もう見えても聞こえてもいない様なその振る舞いに、胸が締め付けられて泣きたくなる。

「鬼灯…ごめん」

僕のせいだ。
僕が安易に呪いなんてかけたから。
お前の想いに気づかなかったから。

「僕は、お前が好きだよ」

恐る恐る無抵抗な体をそっと抱き寄せて、強く肌を擦り寄せた。
視線を合わせても、鬼灯が僕を見てくれる事は無い。
ああ、もっと触れたい。
髪に触れて、肌に触れてー…。
そっと無抵抗な頬に手を添えて、息が触れるくらい唇を寄せても、反応は無い。

「愛してる、我愛?」

何度も愛を囁いて触れるだけの口づけをした。それでも、鬼は呆然と無抵抗のまま何も無い場所を見つめるだけだ。
嫌悪感たっぷりの目で怒鳴ってもいい。殴ってもいいから。
本当は僕の事なんて好きでなくたっていい。大嫌いだって罵っても構わないから。
僕を見てよ。
背中に手を回して、力を込めて抱きしめる。応えてくれる事も無い。抵抗すら無い。

「鬼灯」

これは僕のものだ。
誰にも渡したくない。
誰かのものになるのを見るくらいなら、いっそー…。

「ごめんね」

くしゃりと顔を歪めた白澤は、そのまま手を離すと呆然と立ち尽くす鬼灯を残して駆け出した。



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