神獣の呪いと鬼神の想い人について 四
漆黒に染められた着物の背に鮮やかに浮かぶ逆さ鬼灯を眺めながら、暗くなった野道を歩く。
薬を受け取った鬼灯を追ってすぐ後ろまで追いついたのに、前を歩く鬼は気づかない。
せめて気配に気付いて振り返るくらいしてくれたっていいと思うのに、その素振りすら無い。
肩を掴んで足を止めさせて、無理矢理此方に振り向かせても無駄だという事は理解しているが、それでも手を伸ばしたくてたまらなくなる。
「鬼灯」
呼びかけるが、返答は無い。
分かっていても尚、もう一度呼びかける。
お茶は美味しかった?
女の子向けのブレンドだったんだけど、きっと気に入ってくれるんじゃないかと思ったんだよ。
焼き菓子はちょっと失敗だったかな。お前の口って思っていた以上に小さかったんだな。次はちゃんと食べやすいサイズにするから、もっと沢山作るから。
あと、ちょっと疲れが溜まってるんじゃない?目の下に出来てた隈が濃くなってるし、髪にも艶が無いよ。
忙しいのは分かるけど、もっとこまめに休息を取った方が良いと思う。じゃないとその内過労で倒れても知らないからな。
呼びかける言葉は返答の無い一方通行だ。
僅かでも反応を返してくれないかという淡い期待が今日も落胆に終わり、反応が無い相手に向かって声を掛け続ける空しさで黙るまで喋り続ける。
「ねぇ、何か…答えてよ…」
「………」
今まで散々嫌っていたのは間違いだった。
あの時を境に180度ひっくり返された感情は、突然の事にも関わらず白澤の中で何の拒絶も無く馴染んでいった。
好きと嫌いはごくごく近い感情とは良く言ったもので、きっと鬼灯の態度が依然と変わらなければ、例え自覚したとしても自らの感情を否定していただろう。あんな暴力ばかりの闇鬼神なんて好きになる方がどうかしていると、気づかない振りをして目を瞑ったままだったろう。
それが、自分が嫌がらせの為にかけた呪いによって自覚させられたなんて、なんという皮肉だろうか。
ああ、僕はずっと以前からアイツの事が好きだったんだ。
犬猿の仲だと思っていた嫌悪感が実は片想いであるが故の産物だったと思い知らされてからは、桃太郎に呆れられる程に揺れていた優柔不断で不安定な気持ちはもう無くなっていた。
自分が取るべき行動は一つ。あの呪いを解かなければいけない。
自らの過ちをアイツに謝罪しなければならない。
その為には、何でも良いから動かなければ。
考えうる方法を試さなければ。
(一体どうしたら、オマエは元に戻る?)
強い呪いでは無いと聞いている。ならば、何かのキッカケや矛盾を作り本人が違和感を覚える起点を作ってやれば呪いは解けるだろうと思っていた。
弱っている者ならともかく、地獄の鬼神ならば抵抗力も強いだろうし、すぐに解けるだろう…と。
そう考えて、自らの存在を主張して名乗り上げたが効果が無かった。
全ての接触が遮断されるのかと思えば電話越しの通話には認識される。おそらく電話というものが存在していなかった時代に作られた事も関係しているのだろうか。
試しに通話中のまま姿を見せて自分は此処だと主張してみたが、顔を合わせた瞬間にブチリと通話を切られて、後は同じ結果になってしまった。顔を合わせなくとも通話中に呪いに関連する話を持ちだしても同じだった。
ならば手紙やメールはどうかと試してみたものの、それも効果は見られず目には入っている筈なのに呪いに関する事だけが記憶や思考に残らない。
後は何をすれば良いのだろう。
思い付いたものを試せるだけ試してみたが、何をやっても呪いが解けた様子は無く、突破口すら掴めていないのが現状だ。
一番可能性があるだろうと考えていた計画も、今日5回試して失敗に終わっている。
もう実行するべき手札は無いに等しく、残りは呪いが消える日を指折り数えて見守る事だけだ。他に何か無いのかと考えても時間ばかりが無駄に経過するだけで、何も浮かんでは来ない。
先ほど桃太郎が言ったようなチート技が本当に存在し白澤に実行するだけの能力があれば良いのだが、現実は外から少しづつ刺激を与えて鬼灯の覚醒を待つくらいが精一杯。持久戦になるのは覚悟しているが、一体いつまでかかるのだろう。
何もしない、ただ見てるだけ。
運良く明日呪いの効果が消えるかもしれないし、何ヶ月、何年…下手をすれば何十年後になるかもしれないという確証の持てない不確定な希望に縋らなければならないなんて。
(閻魔大王にも知らせておくべきだろうか)
そう考えるが、正直に経緯を説明したとしても「鬼灯の意中の相手は実は白澤で、意中の者を認識出来ない呪いにかけられており、その呪いをかけたのが白澤」という衝撃的かつややこしいほど拗れている事実を信じてもらえる可能性は低いだろう。冗談だと笑われるのがオチだ。
そもそも鬼灯の慕っている相手というのも白澤が呪いをかけたからこそ判明した事で、それが無ければ今もこの鬼神の恋心を知らないでいただろう。
誰にも言わず心の奥底に秘めたまま、もし機会があれば伝えられたら良い…そうあの時控えめに答えていた鬼灯は、こんな形で白澤に想いを知られる事など望んではいない筈だ。
もちろん呪いの事を知っている桃太郎にさえこの事は話していないし、軽々しく他人に明かすべきものでは無いとも思う。
あまり大げさに騒いでこれ以上周囲を巻き込む事は避けたいし、幸いにも顔を合わせなくとも仕事が成り立つ関係である。出来る事なら誰にもこの事を知られずに解決したい。
鬼灯自身にも悟られぬまま、元の関係に戻れれば理想的だ。
解決して何事も無かった状態に戻して、そして問いたい。
(なぁ、オマエ…いつから僕を好きだった?)
一体、いつから。
好意や悪意といった特別な感情を他人に抱いた場合、何らかの変化があってしかるべきだ。
些細な仕草の変化、相手との距離感、表情や声音に至るまで思い返してみても、敵だと認識された瞬間はあれど好意を持たれるキッカケは最初から何一つ無かった筈だ。極度なツンデレだとしても、デレなんて1%も無かったし、嫌悪感むき出しの鬼の内面に、そんな真逆の感情があった事すら信じがたい。
日頃の態度だって白澤の方から優しく接した事なんて無かったし、2人で審判をした時も賭事を持ちかけた事から険悪になってそれで終わってしまった。
中国で裁判制度を教えた時は少しは友好的な感じだったかもしれないが、ごく最近まであの時の相手がお互いだったのだという事すら気づかなかったし、それ以前に前後不覚になるまで泥酔していた自分に惚れる要素など無いだろう。
だとしたら、一体どのタイミングで。
林を抜けてなだらかな丘を越えれば、遠くに見えてくるのは地獄へと続く門だ。これを潜ればその先は灼熱の大地に続いている。
一緒に閻魔殿まで付いて行くのも悪くないが、悪目立ちする事は避けるべきだろうと判断し、少し離れた所で白澤は足を止めた。
鬼灯との距離が少しづつ開きやがて門の向こうに消えて見えなくなるまで見送ってから、白澤は来た道を引き返しつつポケットから携帯を取り出して二つ折りの画面を開く。通話履歴を出して目的の名前にカーソルを合わせボタンを押して耳元に当てれば、暫くの後に聞こえてくるのは先ほど見送った鬼の焦がれた声だ。
「…何の用だ、白豚」
「白豚じゃなくて、白澤だって何度も言ってるだろ」
「駄獣の名前なんていちいち覚えていられませんので」
「本当にオマエって失礼な奴だな」
開口一番の罵声に安心してしまうなんて、本当にどうかしている。
もしも電話にすら反応しなくなったら…そんな不安のあまり着信履歴は闇鬼神の名前ばかりが連なるまでになってしまった。
格段に増えた着信に不振がる鬼灯をはぐらかして、たわいもない会話をして電話を切る。それが、最近始めた習慣だ。
ああ、今日もちゃんと僕を認識してくれている。そう想えば想う程に緩くなる頬に少し笑えば、気配が伝わったのだろう。酔っているのかと不機嫌に問うてくる低い声。
桃太郎から花街だと聞いた記憶しか無い鬼は、衆合のどこぞで女性達と飲んでいる姿を想像しているのだろう。
「私、貴方のように暇じゃないんですけど」
「いいじゃん、ちょっと話すくらい付き合ってよ」
「チッ…先ほど、そちらに伺って薬を戴きました」
「毎度あり」
「桃太郎さんに店番を任せるのも良いですが、店主が不在過ぎるのはどうかと思いますよ」
「ふふっ、僕を殴れなくて寂しい?」
「自惚れるな偶蹄類、顔を見れなくて清々します。待たされる事も無くてとても快適ですよ」
わざと相手が不快に思う言葉を選んで話す。その売り言葉を今まで何も考える事なく買っていた。
言い返して、罵倒して、口喧嘩に発展するのはお互い会話をする上で自然な流れだった。
口先だけなら何とでも言えるが、好き嫌いを隠さない白澤にとって、鬼灯がずっと続けていた事を同じように繰り返す事は難しく、好意を隠し続ける事の虚しさを知ってしまったら、もう駄目だ。
好きな相手には好きだと言いたい。言ってしまいたい。
「僕は…ちょっと寂しいかな」
「うわキモッ!」
「ちょっ、酷くない?」
「白豚のドM具合にドン引きして鳥肌立ちましたキモイです」
「2回も言うな」
「大事な事なので」
ああ、さっきまで僕達は一緒にいたんだよ。店から門までの道のりを二人きりで歩いたんだよ。これってちょっとしたデートだよね。
そう言った所で無駄なのだろう。最悪電話を切られかねないので、口には出さないでおく。
鬼灯が興味を持ちそうな和漢薬の話や、地獄で起こった事件を話題に出せば渋々でも話に付き合ってくれる鬼の声は穏やかだ。きっとまだ帰りの道を歩いている最中なのだろう。
顔を合わせられない状況になっているとはいえ、こんなにも長く穏やかに話した事なんて今までなかった。
会えば理不尽に殴られて、常に喧嘩ごしの態度を取った。たまに議論を交わし合う事があっても仕事上や、桃タロー君や他者が間に入った時だけだ。
それら全てが懐かしく、随分前の事のように思える。
「あ、そうだ。お前甘いもの好きだろ?」
「何ですが突然」
「店で出すお茶受けの菓子なんだけど、作ってみようかって思ってさ。最近現世でスイーツ男子って流行ってるんだろ?女の子にモテモテなんだろ?」
「その単語自体もう古いですよ」
「そうなの?まぁともかく、お前の意見でいいからさ…何か食べたい菓子とか言ってみてよ?甘味屋とかよく行くだろ」
「あなた、前にも言ってましたよね。前に私が言った餡子パイはどうしたんです」
「あ、覚えてたんだ。あれ難しいよね、ちょっと失敗しちゃった」
先ほど店で出した菓子の事だ。以前に電話した時に鬼灯が話したもので、何かの雑誌に載っていたのが美味しそうだったと言っていたのを参考にして作ってみたのだ。
味覚をキッカケに何か活路が開ければと、これも呪いを解く為の作戦の一つとして白澤が考えたものである。
本当ならこの鬼が大好きなのは酒や飯なのだろうが、唐突に食事に招待するには違和感があるし、呪いが影響してこの鬼の記憶には残らないだろう。
あくまでさりげなく…店で出す茶菓子くらいならきっと大丈夫だと思って実践したのだが、結局あれほど繰り返したのに、食べた時の記憶がリセットしてしまった後では無駄になってしまったようだ。
「やっぱりソレが良いの?」
「いえ、それはもうどうでもいいです」
「じゃあ何?」
「そうですね…ああ、そういえばこの前お香さんから戴いたマカロンが美味しかったですよ。あれなら女性受けするんじゃないですか?」
「何ソレずるい!お香ちゃんがオマエに菓子をあげたとか僕知らないよ!!」
「ハア?駄獣にやる菓子などあるわけないでしょうざまァ。…まぁ正確には、彼女が部下達にお土産を配っていた時に居合わせただけですけど」
「なんだ、そんな事かよ。…確かマカロンってフランスの菓子だっけ。オマエ、それ食べたいの?」
「タダなら食ってやらん事もない」
「お前にじゃない!!女の子に出すんだからな!!」
「チッ…だったら女性に聞けば良いじゃないですか」
「別にいいだろ」
嘘だ。女の子にじゃない。お前の為に作ってやるから。
だから思い出してよ。僕が傍にいる事を気付いてよ。応えてよ。好きだよ。お前が好きだ。
そう声に出して叫びたい。
「白豚さん、そろそろ切りますよ」
「うん、じゃあね」
ざわざわと人の声が電話越しに聞こえる様子から察するに、恐らく閻魔殿に着いたのだろう。
仕事優先の思考に切り替わった鬼の声は、先ほどとは少し固く、芯が通ったように耳に響いてくる。
同じく極楽満月まで戻ってきた白澤は電話を切ると、夜空に浮かぶ月を見上げて大きく深呼吸した。
肺の中までしっかりと酸素を入れて息を吐き出して、両腕を上げて背筋を伸ばし肩をコキリと鳴らす。
ゆるりと吹く夜風が木々の隙間をさわさわと流れてゆき、上を見れば完全に闇色になった空に満点の星々がまたたいている。
「マカロンって…、どんな味だったっけ…」
卵白と砂糖を大量に使った甘い西洋菓子という知識はあれど、身近に無いその菓子を食べた経験は少ない。元々甘い物より辛い物を好んでいる白澤には作った経験も購入した事も無いものだ。
明日にでも桃タロー君を連れ出して色々と材料を買出しに行こう。ついでに色々と道具も揃えて帰ってもいいだろう。
「僕に出来る事を、やるしか無いよね」
とてつもない時間の中で生きてきた手前、気は長い方だと自負している。
それが何年かかろうとも。何百年になってしまったとしても自分に出来ることをして、腹をくくって待つしかない。
一筋流れた星に目をやりながら白澤は誰に言うでもなく呟いて、桃太郎の待つ店へと帰っていった。
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閻魔庁は忙しく、広い法廷には亡者に加え大勢の獄卒が今日も朝から溢れ返っている。
「閻魔大王!!亡者が大量に!!」
「鬼灯様!!搬送中の亡者が一名脱走しました!!」
「阿鼻地獄で崖崩れが!!」
「亡者の数に対して茹で釜が圧倒的に足りません!!」
「川の氾濫が!!」
それらを順番に片付けつつ、閻魔大王の尻を叩くのも第一補佐官の大事な仕事の一つである。
机に積み上げられた書類は処理しても処理しても無くなる傍から新しいものが増えてゆき、その山が減る事は無い。
「ああもぅ鬼灯君〜、ちょっと休もうよ〜。休憩したいよ〜」
「馬鹿言ってるんじゃありません!!この場にいる亡者と書類をあと半日で裁ききりますよ!!まだまだ外に控えているんですから休んでいる暇なんてあるわけないでしょう!!」
「無理だよ〜こんなに沢山できっこないよ〜!!」
「つべこべ言わない!!」
「鬼灯君の鬼〜っ!!!」
戦場と化した法廷に鬼灯の怒号と閻魔大王の悲鳴が響く。
愛用の金魚草ペンを目にも留まらぬ速さで動かしながら、資料と報告書を斜め読みしつつ恐ろしい速度で仕事をこなす鬼灯のピリピリとした様子に周囲も慌てて駆けずり回り、地獄行きの判決を不服として逃亡を図ろうとする亡者すら鬼神の怖ろしさを前に大人しく震えているしかない。
「鬼灯様ーっ!」
次は何事だ。視線だけで殺せるんじゃないかと思う程の眼力で仕事を続ける鬼神の修羅場に、お気楽な声が響いた。
見れば、桃太郎ブラザーズの3匹が揃って鬼灯の元へ走って来るのが見える。
「鬼灯様!今暇?暇?」
「何て事聞くんだシロ!!見て分かるだろ!!」
のほほんと近寄ってきてそんな事を口走るシロに、すかさず柿助がツッコミを入れる。
どうやら3匹そろって仕事が終わった所らしい。明らかに仕事の要件以外の来訪に、鬼灯の頬に1本青筋が走った。
これが動物でなく獄卒だったなら金棒で殴られても文句は言えない状況だが、尻尾を大きく左右に振って懐いてくるモフモフを殴る気にならなかった鬼灯は、がっつりと寄ってしまった眉間の皺を解すように指で揉んだ。
「これねっ、さっき配達に来てた桃太郎から貰ったの!」
「鬼灯様、甘いもの好きですよね」
「俺達最近ちょっと血糖値が気になるから甘い物は控えているんです。良かったら休憩の時にでもどうぞ」
瞳をキラキラさせて嬉しそうに話すシロの言葉を補足するように他2匹も続けて喋りだす。
柿助が差し出してきたのは包装紙にくるまれた包みだった。紐で縛ってもいないそれは簡易的に包んだだけのもので、両手に乗るくらいの大きさだ。紙越しにふわりと甘い香りが漂っており、それが菓子なのだと窺える。
「わぁ、ありがとう。ねえ鬼灯君、やっぱりちょっとだけ休憩しようよ」
それを嬉々として受け取った閻魔大王は、その包みに鼻を近づけてうっとりと頬を緩ませる。
完全に集中力の切れた大王の様子にもう一度尻を叩いて仕事に戻らせるのも効率が悪いと判断した鬼灯は、溜まる仕事から目を反らして深い息を吐いた。
「仕方ないですねぇ…少しだけですよ」
「やった!何かなぁ?甘くて良い香りがするよ?」
「えっとねぇ…桃太郎は何とかって言ってたよ。中に餡子が入ってるの。よく分かんないけど胸やけしちゃうからくれるって」
「へぇ〜それは嬉しいなぁ。やっぱり疲れてる時には甘い物が一番だよね」
包みを丁寧に開いた中には、少しだけ形の崩れた餡子パイが数個。
脆い外側を崩さないようにそっと摘み上げる閻魔大王の大きな手と比べると随分小さく見える其れは、何処かで購入したものの割には形が随分と不揃いだ。
「あ、美味しい!!コレすっごく美味しいよ!!鬼灯君も食べなよ!!」
「毒は入ってないようですね。…では戴きます」
なにげに恐い事をボソリと呟きつつも閻魔から差し出されたパイを受け取った鬼灯は、一口頬張った。
長時間持ち歩いた事で外側のサクサクとした皮はあらかた剥がれてしまっていたが、内側にバターがたっぷり使われているせいか外側の脆さの割に中はしっとりとして、漉し餡に一緒に練り込まれたナッツが噛みしめる度にコリコリと砕け音がする。
大きな口であっという間に1つ目を平らげた閻魔大王は、もう一つ手に取ると噛り付く。
残った最後の1個を鬼灯へと差し出すが、未だに1つ目をもごもごと食べ続けている鬼灯は頬を大きく膨らませて咀嚼しながら一つで十分ですと手を振った。
2個目も先に食べ終わった閻魔は、それならばと残ったパイを口に放り込んだのだ。
「こんなに美味しいの何処で買ったんだろうねぇ、今度桃太郎君に聞いておかなきゃ」
3匹達と談笑を始めた閻魔大王を横目に、未だもぐもぐと口を動かしている鬼灯は、懐に入れておいた自分の携帯を取り出した。
汚れていない方の指で操作し、着信履歴を押せばずらりと出てくる一覧は部下や同僚からの仕事の着信ばかりだ。
最近かかってきた順番に表示されるその名前を順にスクロールしてゆくと、その中で一人だけ仕事でも何でもない用件でかけてきた名前につき当たる。朝から緊急連絡が多くて随分と後ろに下がってしまっていたが、それは昨日の夜にかかってきたものだ。
電話帳ではなく、着信の画面。少し前までなら絶対に上がらなかった筈のその名前。あと1回ボタンを押せば電話をかける事が出来るのに、それを押す事はしない。ただ暫くの間眺めるだけだ。
「…別に、失敗してないじゃないですか」
少しだけ不機嫌に目を細めて携帯を閉じた鬼灯は、それきり携帯を懐に戻した。名残惜しげに手についた生地の欠片を舌で舐め取って、小さくポツリと呟いたのだ。
「ん?鬼灯君。何か言った?」
「いえ…、さあ大王。休憩は終わりですよ。ちゃっちゃと手を動かして下さい」
「ええっ!!まだ5分も経ってないのに…」
「充分です。さぁさぁ!!仕事を再開しますよ!!」
目の前の激務へと頭を切り替える為に両手を叩いて仕事へと促す鬼灯は新しい書類を手に取りつつも、自分が提案した菓子をあの駄獣が作る姿を想像してそっと瞼を伏せた。
店に来る数多の女性に贈る為にと作られたその菓子が、もし気まぐれという名の幸運で再び自分の所に回ってきてくれたら良い。
そんな淡い願望を心の隅で期待したのだった。
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