相手をしろとばかりに差し出された徳利を受け取ってお酌をする間も、速まった動悸はなかなか収まらなかった。
飲めと勧められる酒もビールのような軽いものは無く、度数の高い日本酒ばかり。
飲み過ぎて徐々にふらついてくる体を支えようと、後ろ手をついてバランスを取った。

「どうした」
「や、ちょっと酔っちまったみたいです」

苦笑いを浮かべようとしたつもりが顔の筋肉が思うようにならず、へらへらとした笑いに変わってしまう。
決して酒に弱い体質では無いのだが、疲労と湯に上せた体は簡単に酒負けしてしまったようだ。
見ず知らずの恩人に粗相な事は出来ないと、恋次は何度か眠気を振り払うよう瞬きを繰り返すが、それも時間の問題だろう。
キリの良いところで横にならせてもらおうと思うのに、先ほどから自分へと向けられた視線は一向に外れる様子が無く、少々居心地の悪さを感じる事だけが気にかかる。
もっとリラックスできていたならば、交流を深めようとあれやこれやと話題を出していると筈なのに、なぜか今は何ひとつ浮かんで来なかった。

「…どうして、俺に声を掛けてくれたんスか?」

自分でも意識しない内に、先ほど気にしないと決めた事がするりと口から滑り落ちた。
今更だと言われて空気を濁しやしないかと思ったが、それは杞憂だったらしい。
一人掛けの椅子の肘掛へゆっくりと体を凭れさせた男は意味ありげな視線を寄越す。

「知りたいか」
「え、ええまぁ…」

「何故だろうな」

そんな事を言いながら、まるで駅での事を思い出すように遠くに視線を反らされて、意味の分からない恋次はひたすら首を傾げるしかない。

「見事な色だ」

ふいに伸ばされた手が生乾きの髪へと触れてくる。
地毛なのかと問われて素直に頷けば満足げに目を細められた。ただそれだけの事なのにまるで金縛りにでも遭ったかのように動けなくなる。
初対面でマイナスなイメージを抱かせる事の多い派手な色をどうやらこの男は気に入ったらしく、顔を隠す長い毛を耳の後ろにかけるようにして動く指が皮膚の上をそっと撫ぜたり、ひんやりとした指先が体温の上がった頬に触れたり。
そんな風に触れられる事など無いからか、腰の辺りがむず痒い心地になってしまうではないか。

そういえば駅で声を掛けられた時に、もっと柔らかな表情だったならどんな女性もメロメロなのになるだろうにと思っていた事が、正に今目の前にある。

「ーー、…」

すぐ側にいる男が何かしら言ってきているのに、耳に入って来ない。それどころか、どんどん焦点が定まらなくなっているのを自覚する。

そういえば、何でこんなに近い距離にいるのだろう。
息が触れ合ってしまいそうなほど近くなるのをぼやけた思考で認識したが、その事に対して意識を向ける余裕は無い。
酒に潰れそうになっている自分を心配してくれているのかもしれなかったが、いかんせん今はどうでも良くなるくらい頭が回らない。

(やばい、かも)

ふらふらと揺れる体と思考が、視界を白くしてゆく。
これはあれだ。会社の飲み会で無理矢理飲まされて、つぶれる直前の感覚に近い。

「すんません、俺ー…」

奥の部屋で横にならせて下さいと言って立ち上がろうとしていた所で視界がぐらりと傾いた。
まるでエレベーターに乗った時に味わう一瞬の浮遊感のような感覚に、体が強制的に引っ張られる。

(落ちる)

そう思われた身体は床すれすれで抱き留められた。
打ち付けるかと思われた体は、他人の腕の中。
ふわりと香るのはこの男の香水だろうか。嗅ぎ慣れないそれが鼻先に触れる。

「…ー、ん…、ぅ?」

瞬間、柔らかなものに唇を塞がれたような感触があったのだが、落ちかけた意識が浮上する事は無かった。





ーーーーーーーーー


「……?」

ぱちぱちと瞬きを繰り返し、ゆっくりと浮上してゆく意識。
まず、見慣れない天井と照明が目に入った。
埋め込み型の小さな間接照明が幾つかある天井の隅には龍の彫り物が彫られた立派な欄間。
壁には中国だかどこだったかの有名な山の風景と、その麓を流れる川に立派な鯉が上る水墨画の掛け軸、季節の花が生けられた花瓶が見える。
畳張りの床に敷かれた、ふかふかの布団の中。

(今何時…?)

普段寝る時に枕元に置いているスマホを探そうと手を伸ばすが、見つからない。

(そういや、電源…切れたんだっけ)

そこまで考えてから、ようやく自分が昨晩見知らぬ駅で立ち往生した挙句、知り合ったばかりの男に連れられ一泊した事を思い出した。
設置してある時計を見れば7時になったばかり。
チェックアウトにはまだ余裕がある時間だ。

一体、どのタイミングで寝てしまったのか。どうやって布団に入ったのか全く記憶がない。
そういえば、あの男に抱き止められたような気がする。
おそらくそのまま寝落ちてしまった自分を布団まで運んでくれたのだろう。

(あの人は…)

隣に敷かれているもう一組の布団に目をやるが、誰もいない。
使われた形跡はあるものの人の温もりは無く、随分前に起きたのだろうという事しか分からなかった。
何処にいるのだろうと起きあがった所で、恋次は自分の寝姿にぎょっとした。
着ていた筈の浴衣が無い。帯も無い。下着も無い。
何故だかは分からないが、要するに全裸である。

寝相が悪いから脱げたのだろうと思い布団をめくったが、ある筈の衣類が1枚も無い。
もちろん就寝中に下着を脱ぐ癖など恋次には無く、意識のある内に脱いだ記憶も無い。まったくもって不可思議だ。

周囲を見渡せば、寝室入り口付近に落ちている浴衣が目に入った。
裸のまま立ち上がり歩いてそれを拾い上げる。
もう一度布団から入口まで目で追って、恋次は首を傾げた。

「って事は、俺はここから布団まで素っ裸で移動したのか?」

何故?と思いつつ、とりあえず浴衣を身につけた。
暖められている部屋だと云えども季節は冬だ。何故脱ぐ必要があったのだろう。もしや酔った勢いで自ら脱いだのだろうか。
閉じられていた襖をそろりと開けると、昨晩飲んでいた窓際の席が見える。昨日飲んだままのグラスと酒瓶が数本テーブルの上に置いたままになっていた。
他の部屋や風呂場も覗いてみたが、どこにも人の気配は無く、帯も下着も落ちていない。

あの男は何処に行ってしまったのだろう。そして下着は何処にあるのだろう。
着替えなどある筈も無く、下着が無ければ服を着る事が出来ないではないか。

クローゼットを開けると、中には自分のものではないコートとスーツがかかっている。やはり男は宿内の何処かにいるらしい。
別の棟にある大浴場にでも朝風呂しに行っているのか。それとも朝食を食べに出かけたのだろうか。
とにかく、戻ってきたら迷惑をかけた事の謝罪をしなければ。そう、昨晩の記憶を思い出していた時だった。
ふと、覚えていない筈の感触を思い出し咄嗟に口を押える。

「そういや俺、キス…されたんだ」

そうだ。
抱き込まれて、キスされた所で記憶が無い。
その前にどんな会話をしただとかは覚えていないくせに、その感触だけが生々しく記憶に残っている。
それどころか、入ってきた舌が咥内を荒す様や畳の上に縫い付けるように押し付けてくる手の感触までも、思い出したくもない事ばかりがどんどん溢れてくる。

「まさか」

あまりに突拍子もない事だっただけに現実味が無い。
だがそれが現実だったとしたら何だと云うのだろう。

全裸で眠っていた自分。
違う場所にある浴衣。
見つからない下着。

「いやいや、ちょっと待てって」

…笑えない。
だってそうだろう。相手は男だ。
自分とそう体格の変わらない、年上の男だ。

だが、そういえば何で助けてくれたのかハッキリとは言わなかった。
もしかして、そういう趣味の人だったとしたら。
あの意味ありげな視線が、色を含んでいたのだとしたら。
あのまま一線を越えていたのだとしたら。

「ありえないだろ」

笑えない冗談だと口に出してみるが、どんどん思考は危険な方向に舵を切ってゆく。
このまま男が戻ってきたら、どうしよう。

この考えが勘違いだったのなら良い。
けれど、もしかしたら。
もしかしたら。

「……ッ」

探しても見つからない下着を諦めて、部屋の隅に置いていた皺だらけのシャツとスーツを拾い慌てて身につけた。
あまりに気焦っているからか、指が震えてシャツのボタンがなかなか留まらず舌打ちする。
スラックスが下着の無い肌に触れて妙な感じだったが、気にしてはいられない。
スーツを羽織ってジャケットを着こむと、鏡に映る姿は昨日と同じ格好だ。
そのまま鞄を拾い上げると、足早に入口へと向かった。
高そうな革靴の横に揃えて置いてある安物の自分の靴に足を突っ込み、そのまま部屋を出る。

どうせ一晩だけの縁、お互い名前も知らない間柄だ。
行き先は別々なのだから、一緒に部屋を出る必要も無い。
何も言わず勝手に帰る事に少しばかりの罪悪感を覚えたが、あえてそれは無視した。

通路を足早に歩きロビーを横切れば、昨日出迎えた女将が不思議そうな顔をして見送ってくれたが、その丁寧な対応にお礼を言う余裕すら今の恋次には無い。


(どうしよう)

何度も手の甲で口を擦りながら焦る気持ちは増す一方。
宿から無事出ることが出来た恋次は、爽やかな朝の道を逃げるように駆け出した。









2013.04.09

続きます。。




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