あれから15分程走った頃だろうか、木造りの立派な門を潜った車はそのまま敷地内の道を少し行った所で停車した。

車から降りて見上げた建物は、和風建築のこじゃれた日本料亭のように見える。
灯籠風の照明に小さく店の名前が書かれている以外は何も無いシンプルさがいかにも高級といった雰囲気を出していて、もし恋次一人でその前を通ったなら宿泊施設とは分からずに素通りした事だろう。

出迎えてくれたのは着物姿の従業員が数人。華やかな出で立ちの婦人は女将であろうか。
遅い時間帯にもかかわらず大勢の使用人が並び出迎えいれる様に、嫌な予感がした時にはもう遅かった。
ロビーでチェックインする事もせずにいきなり部屋へと案内され、それを当然のように振る舞う男。
道中、通路から見える庭の広大さ。加えて部屋にたどり着くまでに小さな掛橋を2つ渡り、客室は庭に囲まれた完全な離れ。部屋付きの露天風呂は当たり前な上、寝る為の部屋以外に何に使うのかという部屋が3つもある。


一通り部屋の説明を終えた女将が三つ指ついてごゆっくりと笑顔を向ける。それを横目に恋次は先ほど駅でこの男に促されるまま車に乗ってしまった事を今更ながら後悔していた。


「部屋の隅で良いならって…」

そう言っていたではないか。
てっきりビジネスホテルか、偶然住んでいた知人か親戚の家だとか、そんな庶民的な事を想像していた恋次には何もかもが違いすぎるのだ。

しかも奥に見える寝室には布団が2組浴衣が2つ。
気を利かせて用意してくれたのかもしれないが、これでは自分も宿泊者扱いされている事になるのではないのか。
あまりの状況に冷や汗が止まらない。

浴衣に着替え始めた男は、呆然と立ち尽くす恋次を眺め怪訝だと云わんばかりの顔をする。

「何をしている」
「いや、だって、…俺、本当に現金もカードも持ってないんですけど…」

だからさっき駅で一晩過ごそうとしていたのだと男も知っている筈なのに。
そう恐々切り出せば、眉を寄せる男は呆れたような顔を向けてくる。

「支払いなら済んでいる。気にする事では無い」

ぴしゃりと会話を切り風呂に入りに行ってしまった男を見送って、恋次はようやくその場にへたり込んだ。

「…マジ?…」

住んでいる世界がまるで違う。
こんな事なら駅で野宿の方がマシだったのかもしれないと思えてくるほどに違い過ぎる。
とんでもない人間に拾われてしまったのだと、ようやく恋次は理解した。




ーーーーーーーーーーー



あれから数分後、戻ってきた男にいつまでそのままでいるつもりだと風呂場へ追いやられた。

戸惑いつつも窮屈な衣服を脱いで湯に浸かってしまえば思わず安堵の息が漏れる。
手足を思い切り伸ばしても直余裕ある浴槽は個室風呂にしては広過ぎて落ち着かないが、それでもずっと座り続けの姿勢を強いられて凝り固まっていた体が急速に緩んでゆくのが分かった。

間接照明を受けてほの暗く浮かびあがる浴室には、湯の流れる音のみ。
冷えた手足が熱めの湯の中でじわじわと温まってゆく心地良さは何ともいえないもので。あまりに現実離れしていて、夢でも見ている心地になる。

泊まる予定のない土地でのたった一晩の為だけに豪華な所に宿泊し、それを何とも思っていないあの男は一体何者なのだろう。
どこかの資産家か、由緒ある家柄の若旦那か。

これも何かの縁だと言っていたが、平凡な一般市民の一生の中で資産家と関わるなんて事、今回を除けば一生訪れなかったに違いない。
自分の姿がよほど惨めに見えたのか、それともたまたま目に入っただけの気まぐれというのか。

「まぁ、気にするなって言うんだから、…いっか」

深く考えても仕方ない。
ご厚意は素直に受けるに限るのだ。
頬の上までどっぷり湯船に浸かった恋次は、ぶくぶくと息を吐き出しながらぼんやりと湯気の立ち上る水面を眺め、それ以上答えの出ない事を悩むのを止めた。

「んー、ふんふ〜、」

湯の中で完全に緊張が解け、その反動でどっと押し寄せた疲労感から沸き上がる睡魔に負けてううととしてしまった恋次は、未だ夢見がちに適当な鼻歌を歌いながらゆっくりと浴衣に袖を通していた。

浴槽の傍に冷えた酒とお猪口が置いてあったのを良い事に、少しだけと一献傾けてしまって余計に気分が良い。
普段よりも随分長湯してしまったらしい風呂上がりの体は妙にふらついて、今横になったらすぐに眠ってしまう自信がある程だ。
あれだけ降り続いていた雪と風は止んだらしく、窓の外を見れば一面の暗闇。
都会のネオンを反射する明るい夜空とは違い、墨を塗りたっくったかのような空に鮮やかに星々が浮かぶ様は別世界に来たような錯覚を覚える程だ。

このまま晴れるなら明日は大丈夫そうだと思いながらおぼつかない足取りで部屋へと戻ると、窓際に置かれたソファーにいた男は寛いだ様子で晩酌をしている最中だった。

「遅かったな」

飲むかと差し出されたグラスには並々と注がれた透明の液体。
水かと思って一気に飲み干したが、それが酒だったと気が付いた時にはもう喉元を通り過ぎていた。

「…ゴホっ、ちょ、…コレって…」
「良い飲みっぷりだ」

満足げに細められた目尻に、抗議するのも忘れて思わず見とれてしまう。
頬に急激に血液が上がってくるような気がするのは初めてこの男の好意的な表情を見たからなのか、それともただアルコールによるものだったのか分からない。
心臓の鼓動が相手に聞こえやしないかと意識すればする程その音はどんどん大きくなる一方で、恋次はその場から逃げ出したくなるような妙な恥ずかしさを覚える。

顔が、やたらと熱い。




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