それから更に日にちが経過した。
恋次の復帰直後は多少バタバタしていた六番隊も、今はもう落ち着いて仕事が回せるまでに回復し、恋次自身も徐々にではあるが日常に戻りつつある所まで来ている。

白哉とまともに対峙したのはあれから暫く後の事だったが、復帰したばかりという事も相まって日中は三席と共に溜まった仕事を終わらせる事にかかりきりで、そのせいで白哉と接する事もあまり無かった。 
部下からは不在、もしくは外出としか聞かされなかった恋次にとって一体その間白哉が何処で何をしていたのかは結局分からず仕舞いだったが、意識して白哉の事を考えないようにしていた所為もあり、知る者を探す事も深く詮索する事もしなかった。

始めの頃は檜佐木に付いていてやれと命じた筈なのに何故復帰しているのか。そう咎められやしないかと内心身構えていたのだが、それも無く本当にいたって普通で…普段通りだったのだ。

「隊長、来月行う視察の資料です」
「ああ」

今は執務室で二人きりになろうとも残業で遅くなったとしても、白哉は約束通り恋次に触れる事は無いし、部屋に呼ぶ事も無い。
筆を滑らせ続ける白哉の邪魔にならないよう机の隅に資料を置いて席に戻った恋次が少しだけ白哉の様子を伺うようにして眺めてみても、それに白哉が視線を返してくる事は無い。

窓の外はもう薄暗く日も沈んでしまった時間帯。今日中に済まさなければならない最低限の仕事は先ほど提出したもので終わっていたが、業務終了の時刻にはまだ少しだけ早かった。
再び白哉の方を横目に見ながら、恋次は脇に積まれた書類の山から近日中に済まさなければならない書類を探し筆を取る。硯の墨を削り筆を浸しながら、まっさらな紙を文鎮で留める。
書き出しの文句を頭で考えつつ右腕を構え筆を滑らせて。その一連の動作は意識しなくとも体が勝手に動くようになる程行っている日々の仕事の一つだ。

例えばこういう時、以前はどうしていただろう。
新しく出来た店の菓子が美味かっただとか、新米隊員の誰それが仕事に慣れてきて良い傾向だとか、そんな他愛の無い話を切り出してそれに白哉が応えてくれていた気がする。お互い黙々と仕事をしていてもその沈黙が苦痛にはならなかったし、雑談を切り出すタイミングだって意識せずとも出来ていた筈なのに、何故こんなにも気まずくてたまらいのか。何よりも違和感があるのは、視線すらまともに合わせようとしない白哉の態度だ。

それはやはり、自分に対して興味を無くしたからという表れだろうか。
あんな関係になってしまったのが嫌でたまらなくて、やっと白哉に伝える事が出来て関係は改善された筈なのに。その時よりも増して白哉と二人きりの空間が重苦しく思えてくるのは、一体何なのか。

(いや、違う。そうじゃなくて…)

いつの間にか止まっていた筆が紙に大きな墨溜まりを作っているのに気が付いて慌てて腕を上げるが、もう遅すぎた。
染みは紙を通り過ぎその下の机にまで達していて、その部分の木目だけを黒く浮き上がらせている。
袖で拭ってみても横に広がるばかりで完全には無くならない。
付いてしまったものは消えない。それは、まるで今の自分達のようにも思えた。

自分は、このままどうしたいのだろう。
この状態で納得出来ないなら、一体どうなる事を望んでいるのだろうか。本音は…本心は、そう考えれば考えるほど思考がぐちゃぐちゃになって分からなくなる。


「やあ、お邪魔するよ」

コンコンと扉を叩く音に顔を上げれば、少し開いた戸の隙間から顔を出したのは京楽だ。他隊の隊長が事前の連絡も無く訪ねてくる事など滅多に無いもので、慌てて恋次は立ち上がった。

「いいよそんなに畏まらなくって、僕はもう職務外だしね」
「いえそんな訳には」
「朽木隊長に用があったんだけど、今忙しいかな?」

下の者に対してもにこやかに話しかける姿は相変わらず飄々としていて、存在感とはまた違った意味での威圧感や威厳ある姿といった印象はあまり感じられない。
普段接する機会の無いその雰囲気に戸惑いながらも応対しようとする恋次を軽く制止ながら、京楽は奥の白哉へと呼びかけるようにして片手を上げた。

「何用か」
「ちょっと、いいかい?」

仕事を続ける白哉の問いかけに、彼は本題を切り出す事はせずに笑顔のまま話を濁すだけだ。おいでおいでと手招きを繰り返す動作はまるで小さな子供にするようで場違いな仕草に見えてしまう。
どうやら外で話をしようという意味らしい。

「…俺が席を外しましょうか?」

手招きする間に一瞬伺うような視線を向けられた事もあり、恐らく副隊長には聞かせられない隊長格だけの極秘な要件か、仕事とは関係の無いプライベートな用件のどちらかだろう。それならば上官2人が揃って席を外すよりも自分一人が退席した方が都合が良いだろうと判断して白哉を伺ったのだが、反応は可とも否とも返ってはこない。

「いや、仕事中の君を追い出す訳にはいかないよ」
「俺は別にかまわねぇです。ゆっくりしていかれて下さい」

無言は可だと捉えて、京楽に会釈して執務室を出ようとした所だった。

「どこへ行く」
「え、…適当に暇を潰そうと…」
「職務中だ」
「いや、でも俺が出て行った方が…」
「勝手な行動を取るなと言っている」
「まぁまぁ、別にいいじゃないの」
「貴殿は口を挟まないでいただきたい」

ぴしゃりと強い口調で諌められて表情を曇らせた恋次を、間に立つ京楽が宥めようとするが白哉は不快さを隠す事は無い。

「…申し訳ありません」

白哉が仕事を中断させて立ち上がる間も此方へと歩を進める時も、萎縮したままの恋次はその場から動く事は出来なかった。
すぐ横を通り過ぎて京楽と言葉を交わす間も、俯いたまま視線は合わない。

「出てくる、後は任せる」
「はい…」

いってらっしゃいと声に出そうとした筈なのに、それは喉の奥に引っかかって出てはこなかった。ちょっと部下に厳しすぎるのではないかと京楽が話す声が遠く聞こえてくるが、白哉の声は聞こえない。
そのまま2人の気配が遠ざかるのを俯いたまま送った恋次は、扉を閉めて再び仕事を続けるべく机へと戻った。
首を横に向ければ、先ほどまで白哉がいた机が目に入る。軽く片付けただけのその板の上には書きかけた書類が残っている。達筆で白哉らしい見慣れた文字。それをただ眺めた。


「……」

ここ数日、確かに以前のような関係に戻れた気がしていたのだ。
部屋に呼ばれて望んでもいない行為を繰り返す事も無くなったし、その事に悩む必要も無くなった。
それはとても喜ばしい事だ、それなのに…。と、胸の辺りを掌で押さえる。
それなのに、この気持ちは一体何なのか。
この、重苦しくて不快な気持ちは一体何だ。
最初の2、3日は確かに嬉しかった。あの関係を抜きして白哉の隣に立てばきっと気持ちも昔のように戻るだろうと思っていた。それが4日経ち5日経ち1週間2週間…。そして、その考えが安易で浅はかなものだったのだと思い知らされるまでに至る。
あれほど嫌だった筈なのに、気づけば白哉の方に視線が動いてしまうのだ。そして、永遠に合わないその眼差しに落胆してしまう自分が、寂しいと…感じてしまう自分が心の何処かに居る。

今までが近すぎたのだ。異常だったのだ。
それが少し距離が開いただけだ。今こそが普通だ。正常なのだ。だから寂しいと思う感情も錯覚だ。
冷たい態度を取られている事に対しても、白哉に嫌われている…避けられている。そう考えればすんなりと納得出来た筈なのに。

(俺の事が、愛しいって…言ったくせに)

そうだ、それがずっと自分を縛っている。
割り切って前に進まなければと頭で考えていても、胸の何処かでずっと引っかかり、暗い闇に引きずり込もうとする呪縛となっている。

「終わったんだ、もう。終わったじゃないか…」

大嫌いだと言った。ならばもう触れないと言われた。だからあの人とは終わったんだ。
言葉に出せば気持ちの整理がつく気がして何度も口上に乗せてみるが、何の解決にもならない事は理解していた。何故こうもあの言葉に囚われる。何故解放されない。
縛られているのは此方だけで、白哉の方はもうとっくに態度を変えたじゃないか。だから自分も区切りを付けなければと思うのに気だけが焦るばかりで、ふとした瞬間に意識だけが同じ所で堂々巡りをしている。

「…」

もし、あの時拒絶せずに白哉の言葉を聞いていたなら、あの人は何を言うつもりだったのだろう。
あの人らしくない言い訳をつらつらと並べたのだろうか。それとも全く違う別の何かを言おうとしていたのだろうか。
それをもう一度確認する術は無い。

机の上にうつ伏せに顔を伏せた恋次は、そのまま胸元を掴んでいた手を下へと滑らせた。袴の脇から手を差し込んで、奥へと指を潜らせる。

(恋次)

今までは幾度となく呼ばれていた自分の名だが、ここ数日間で呼ばれた回数は必要最低限と云って良い程に少ない。
仕事中とは違う声音で、あの低く甘い声で呼ばれたのはいつが最後だっただろうか。

「…っ…」

あの細い指先に触れられたのはいつが最後だっただろう。
こんなふうに下帯の上から撫でながら、ゆっくりと羞恥を煽るように囁く言葉や耳に直接触れる吐息を感じたのは。

「ん…、ぅ…」

もし今この瞬間に京楽と話し終わった白哉が戻ってくるかもしれないのに。いけない、と思うのに。
未だ業務時間内、部下が報告に訪ねてきてもおかしくないのにと理性が警笛を鳴らしても、一度頭を擡げた衝動は止まらなかった。
萎えたままの其れを布の上から何度か刺激してやれば簡単に反応を示す欲の塊。簡単なものだ。

「っ、…ん…っ」

目を閉じれば、この部屋で何度も白哉に抱かれた記憶が蘇ってくる。
強引に押し倒される事も多かったし、場所が場所であった故に恋次も協力的に動いた事もある。灯りも着衣もそのままで、何度も口づけを交わした。名を呼び、呼ばれ。まるで恋しい間柄のように指を絡めて、腕を回して、体を重ねて。

「…ぁ…っ…」

床に膝を立てて額を机に押しつけて、下帯をずらして出した其れを無心で扱けば完全に立ち上がってゆく。袴を緩めずに耽る行為は酷く窮屈なものだったが気にする余裕はもう無かった。溢れ出る先走りを指に絡ませれば、ぬめるその感触に腰が震えた。

「…は、…ぁ…っ…」

じわりと額に浮き出る汗と短く浅くなる吐息に混じる自分の声だけが静かな部屋に響いている。交じるものは何も無くすがりつく者も無い。ただ、あの人の残り香だけが微かに残っている気がして、息を吸い込めば体の奥底がじわりと熱を持つ。

「ふ、ぅ」

もうずっと白哉としか関係を持っていなかった、過去幾度とあった違う連中達の事などどうでも良くなるくらいこの体は白哉を覚えてしまった。
あの指が次にどう動くのか、どうやって焦らして煽るのか考える前に肌が反応してしまう程に慣れてしまった。

「あ、…ぁ…」

ただ吐き出すだけの単純な動きを繰り返せば、後はあっけないものだ。
手の中に吐き出した其れを拭き取って乱れた着物を整えればもう誰にも気づかれる事は無いだろう。
倦怠感と多少の虚しさはあるものの、絶頂と解放の喜びは思考を麻痺させる都合の良い早い逃げ道だった。

(最低だ…)

白哉はまだ戻ってはこない。…戻らなくて本当に良かったと思う。
何の解決にもならない行為だとは分かっていたが、それでもどうしようもない。
痴情の縺れは時が解決すると聞くが、ならばどれ程時が経過すればこの苦痛も消えてくれるのだろう。
静まりきらない心臓の音と共に次第に大きくなる罪悪感で押し潰されそうになりながら、恋次は床にへたりこんだまま暫く目を閉じた。




01 / 02 / 03 / 04



【 戻る 】

Fペシア