長い眠りから覚醒した檜佐木は、室内の様子からこの場所が四番隊にある病棟の一室なのだと理解した。
瞬きをゆっくりと繰り返して、ぼんやりとした思考のまま考える。
何故自分はこんな此処にいるのだろう。どれくらい眠っていたのだろう、今日は何日だろうか。
そんな事を考えながら起き上ろうとした筈なのに、意に反して指先すら全く動かない事に違和感を覚える。

可能な限り首を動かしてみても一人用の寝台が置かれただけの簡素な室内には誰もおらず、周囲は静けさを保っており何の気配も無い。
窓の外は薄暗く、今が夜になったばかりの夕刻なのか、夜が明ける前の早朝なのかも判別がつかない。

「…、俺は…」

一時的な記憶の混乱により自分の身に起こった出来事を思い出し、生きて帰ってこれたと理解するまで時間がかかってしまったのも無理は無いだろう。
まるで違う情報、消えた同僚、繋がらない通信、あり得ないほどの敵の数。何もかもが想定外で現実味が無かったあの夜の光景を…死を覚悟した瞬間が脳裏にありありと蘇るまで至った時、檜佐木の背筋をゾッとしたものが這い上がった。
そうだ、アイツは…恋次は無事だろうか。

「れ…っ、ゴホゴホッ」

呼ぼうとした名は中途半端に途切れてしまい言葉にならなかった。
大げさなほどに全身を覆う包帯の割にあまり痛みを感じないと思っていたのは麻酔が効いているからで、やはり相当な重傷らしい。
息を整えようと意識すればする程に呼吸が荒くなり、喉の奥からこみ上げる嘔吐感は唾液を飲み込む事で何とかやり過ごした。
よくこんな状態で死ななかったものだと脂汗が浮かぶ顔で笑ってみるが、笑う刺激すら体には堪えるらしく呼吸が苦しくて堪らない。

此処が四番隊の病室ならば誰か近くにいないのだろうか。無理やり起き上がろうとしても体から伸びる点滴の管が数本揺れただけで残念な結果に終わってしまった。
初めての覚醒なのだから思い通りに動かないのは当然と言えば当然なのだが、せめて自分が眠っていた間の状況が知りたい。一刻も早く現状を確認し把握しなければ。何も出来ない状態で一人寝台に横たわっている時間が惜しいと、檜佐木は唇を噛んだ。

恋次は、今何処にいるのだろう。
もうダメだと覚悟した時に助けに入ってきた事は覚えている。持ち上げられるようにして体を支えられ、そのまま複数の敵と対峙していたのも覚えている。
そこからどうやって脱出したのかは覚えていない。記憶は途中で途切れている上に曖昧で不明確だ。

俺を置いて逃げろと、そう何度も叫んだ筈なのに必死に自分を庇うその横顔が今でも脳裏に焼き付いて離れない。
あの状況から生きて帰って来られたのならば、恐らく援軍が来たのだろう。無線も何も通じない状況を危惧した誰かが助けに来てくれなければ、自分も恋次も生きては帰れていない筈だ。

どこか違う病室にいるのだろうか。
ハンデを抱えながら戦った筈なのだから無傷という訳ではないだろう。
…酷い傷など負っていなければいいのだが。

(何で誰もいねぇんだ)

誰か、そう再び声を上げようとしても喉が言葉を紡がない。苦しさに涙目になりながらも何度か咳を繰り返せば次第に意識まで薄れてく始末で本当にどうしようもない。
深呼吸を繰り返し、ようやく呼吸が落ち着いてきた頃だった。
開けられていた窓から流れ込んだ風が扉へと抜けてゆく気配に其方へと視線を動かせば、先ほど閉じていた筈の扉が開いている事に気が付く。
ノックの音も扉が動く音すら無く入ってきた人物に、檜佐木は一瞬呼吸を忘れた。

それは四番隊の誰かでも己の上司である東仙でも無く、もちろん探していた恋次でも無い。
此方へと歩む動きに合わせて白い羽織が靡く様子すらゆっくりと見えるのは目の錯覚だろうか。

「…、っ」

自分へと向けられたその視線はどこまでも静かで暗かった。

何故あなたが此処に?
そう問おうとしたのに、喉からは歪な音が切れ切れに吐き出されるだけだ。
対峙する事、数秒。急激にせり上がった心拍数と血圧に、もう喋るどころか意識すら危うくなった己を見下ろすだけのその人が踵を返し部屋を出てゆくのを引き止める事も出来ず、檜佐木はただ霞んでゆく視界の中でそれを眺めるしか出来なかった。
直後に四番隊の隊員らが駆け込んできたらしいのだが、それももう曖昧で覚えていないし、もしかしたらあの人の姿だって幻だったのかもしれない。

後に別の者に確認して分かった事だが、それは恋次が拘置の為に牢獄へ囚われてから3日目の朝だったそうだ。






【 加籃菜 】







小鳥の囀る声が何処からか聞こえて、誰もいない静かな空間に涼やかに風が通り抜ける。
いつまでも此処にいてはいけない。そう理性が働くまでに恋次が回復したのは、白哉が去ってから随分と時間が経った後だった。
蹲った姿勢から体を起こし、大きく息を吐く。足に力を入れ床に手を付き立ち上がれば、痺れていた足がじんと疼いた。

ゆっくり周囲を見渡せば閉じられた扉が目に入ってくる。自分が開き白哉が閉じた仏間の扉だ。
今は故人の遺影を前にして何て事をしてしまったのだろうという後悔ばかりが重く胸にのしかかってくるようで、もう此処には居たくなかった。穏やかに微笑む幼なじみによく似た奥方の顔をもう一度確認する気にはなれず、逃げるように部屋を出る。
敷地内では誰ともすれ違う事が無かったのはせめてもの幸いだった。そのまま人目を避けるように狭い路地を選んで歩いてゆく。
まだ日は高く、本来ならば白哉の元で仕事の指示を仰ぐべきなのだろうが、身勝手な行動を取った上に役に立たないと言われてしまった以上、もう一度改めて白哉の元を訪ねるのは憚られた。

とにかく、一度宿舎へ戻って着替えなければ。
薄汚れた衣服を脱いで汚れを落し、落ち着ける場所で頭を整理してこれからの事を考えなければ何時まで経っても先へ進む事は出来ないのだ。

きっとこの拘置の間に様々な噂が飛び交った事だろう。
自分を良く思っていない連中からの嫌悪に満ちた視線や、いわれもない噂にこれからも耐えねばならないと思うと、酷く心が重くなる。
こんな事いつもの事だ。今までも散々あったじゃないか。慣れた筈だろうと言い聞かせて前向きな気持ちに切り替えなければいけないのに、今はまだそんな気分になれそうも無かった。
いっそ、先ほどまでのやり取りは全て夢であったなら良かったのにと思うほど打ちのめされていて、恋次はため息を吐く。

歪な関係が始まる前の様に、何も疑わずに平和な日々を送れたなら…。白哉をただひたすら尊敬し、憧れたままでいられたならどんなに良いだろう。
そんな幻想を願ってみても、先ほど自分の目で確認した事は紛れも無い事実なのだ。
掴まれた手首からも伝わる静かな怒気と、冷たい視線。
あの時自分に向けられたのは明らかな軽蔑であったし、それほどの事をしてしまったという自覚もある。打たれた頬も未だにじくじくとした痛みを発し熱を持ち続けており、それが夢でも幻でも無い事を物語っている。

それと共に不思議でならない事が一つ。何故今回も白哉は自分を副官から降ろすと言わなかったのだろう。
故人や義妹を侮辱し無礼極まりない態度を取った挙句、白哉の言葉すら恋次は拒絶した。それなのに何故。
副隊長には相応しくない。部下でいる資格は無い。何処ぞにでも行ってしまえと、その場で激怒されても仕方の無い事をしたというのに、白哉は恋次の処遇について何も言わなかった。
最後まで副隊長の地位について何も触れないばかりか”用があれば呼ぶ”とまで。その言葉が真であるなら未だに自分を使う気でいるのだろうか。
恋次の方から離れてゆくように仕向けているだけとも考えられるが、あの人がそんな回りくどい事をするとは思えなかった。
ハッキリと否定してはくれたが、市丸の言葉と、先ほどの白哉と…一体どちらを信じれば良いのかも、未だ決めかねている。

「分かんねぇ…」

混乱し疲れ果てた頭は鈍い頭痛となって考える事を放棄し始める始末で、小さくかぶりを振った恋次は久しぶりに自室のある六番隊の宿舎へと戻った。
夜勤に備えて休んでいる者以外は全て出払っている所為なのか、夜の喧騒とは無縁と云わんばかりに静まり返っており、それが今の恋次にはありがたく思える。

着替えを手に水場へ向かい、井戸から汲み上げた水を頭から被れば水の冷たさに思わず声が上がるが、肌を伝い落ちる水の感触が心地良かった。髪紐や着物を解き何度も頭から冷水を被り、石鹸を手に取り手早く洗っていく。
拘置中の間は、体を拭くくらいしか肌を清める手段が無かったのだ。本音を言えば熱い湯に浸かってのんびり風呂を楽しみたい所だが、体の汚れを落すだけならばこれで十分だろう。
さっぱりした肌に清潔な死覇装を身に着けた所で、恋次はようやく一心地ついた気がして安堵の混じった息を吐き出した。
さて、これから本当にどうしようかと自室へ続く廊下を歩いている時。

「恋次さん!!」

突如背後から呼ばれた声に振り向けば、遠くから走ってくるのは理吉だ。
満面の笑みで駆け寄ってくる様子に、その姿を見るのは随分久しぶりのような気がしてほっと恋次の気持ちが浮上した。

「お帰りなさい!!今からご復帰ですか?」
「あぁ…まぁ、…そうだな」

当然のように話を切り出してくる理吉は先ほどの白哉との遣り取りを知る訳も無い。恋次は曖昧に答えるしかなかった。
正直、これからどうしたら良いのか判断しかねている。副隊長の地位を解かれていないのならばこれ以上皆に負担をかけるわけにはいかないが、本当に復帰して…良いのだろうか。

「皆、恋次さんのお帰りを心待ちにしていたんです。お体は大丈夫ですか?お怪我は…」
「この通り、傷も塞がったし大丈夫だ」
「良かった!朽木隊長だってお喜びになられますよ」
「…、…」

その言葉に表情が曇りそうになる。
白哉が自分の復帰に喜ぶ事など万に一つも無いだろうと心の中の誰かが囁く気がして、満面の笑みで話し続ける理吉の言葉を素直に喜ぶ事が出来なかった。

「三席も恋次さんが復帰すれば溜まった書類がようやく片付くって言っていましたし、俺たちも誰が一番最初に稽古を付けてもらえるか楽しみで!あと久々に玉蹴りもやりたいです!」
「そうだな」

「そうだ!朽木隊長でしたらご不在ですよ。恋次さんが戻られたら直接三席を訪ねるようにって通達が…」
「通達?…隊長が不在?」
「あ、すいません。俺、忘れ物を取りに戻っただけで、すぐに持ち場に戻らないと。…それじゃ、失礼しますね!」

終始満笑顔のまま走り去っていった理吉を見送り、恋次は違和感を覚える。
無実とはいえ拘置という罰を受けた自分は事情の知らない者から見れば罪人と何ら変わらないだろう。それなのに自分が復帰したら声をかけろと通達まで出ているとはどういう事だ。
それに白哉だ。不在という事はどこかへ出かけているのだろうか?それは自分と会う前の事か?それとも会った後か?

散々迷った挙句、意を決して三席を訪ねるべく執務室に赴いた恋次は再び面食らった。すれ違う隊員達が皆、恋次の復帰を歓迎した様子で迎えたからだ。
復帰を祝う者。体調は万全かと心配する者。仕事が溜まって大変だったからこれで楽ができると笑いながら憎まれ口をたたく者。それぞれが皆一様に恋次の復帰を喜んでいる。
変わらず信頼してくれる部下達の態度が最初に予想していたネガティブな物とは全く正反対で、疑心暗鬼になっていた恋次だったが、不安が喜びに塗り替わるのにそう時間はかからなかった。

理吉の言った通り白哉の姿は無く、待ち構えていた三席から仕事を引き継いだり、近況を把握するだけで夕刻になってしまった。そうして結局その日の職務が終わるまでにその人が六番隊に戻る事は無かったのである。

「すまねぇ、これから四番隊に行かなきゃならねぇから」

大勢の部下から復帰祝いに飲みに行かないかと誘われたのを申し訳無く断ると、恋次は六番隊を出た。

向かったのは四番隊。
すれ違った四番隊員らしき者に部屋の場所を聞き出して、たどり着いた先は病棟の最上階にある部屋。檜佐木の病室だ。




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