神獣の呪いと鬼神の想い人について 参




花街というのは何処も華やかな活気に満ちている。
華美な建物、客寄せの声、艶やかに着飾った女達とそれらを物色する男達。
誘われるまま路地裏へと入り込めば、其処は金と色と欲が交差する密やかな世界。
その味を知ってしまったが最後、一時の悦の為に抜け出せなくなる者は数知れず。それを分かっていて尚溺れる事こそ、最高の贅沢と云えるのだ。

「最近よくいらして下さって嬉しいわ」

朱色に塗られた浅い杯に注がれる酒。それを一口で飲み干せば、鼻先に抜ける香りと舌触りの酔い液体が咽を焼きながらとろりと胃に落ちてゆく。
アルコールが回った顔を赤くしながら、白澤は上機嫌に笑った。

「ふふ、妲己ちゃんになら、毎日でも会いに来ちゃいたいくらいだよ〜」

緩く巻いた長い髪から覗く白い肌、整ったかんばせ。
明るい色化粧を乗せた瞼、長い睫、鮮やかな紅が縁どる唇は濡れて艶めいているし、耳を飾る装飾品が動作に合わせてシャランと音を立てる。
それら全てが薄暗い照明に照らされて魅力的に映るのは、何も夜の空気と酒の錯覚だけでは無い。

擦り寄ってくる体を抱き寄せて囁くように答えてやれば、袖で口元を隠して恥じらう仕草が可愛らしく、誘われるまま酒を空けて、望まれるまま追加注文をする。
何本目だろうなんて考えるのも野暮な話。そろそろ控えなければ後々の二日酔いと請求金額が恐ろしい事になりそうだったが、それはそれ。これはこれ。美人のお願いには決して逆らえないのだ。
重心が取れず揺れるばかりの体に、ああ、これじゃ歩けないじゃないかと考えて、ふふっと笑ってみる。

ふらりと店に入ってから一体どれほど経過しただろうか。
早い時間から入り浸っている上に、時計なんて野暮なものはこの部屋には存在しない。
地獄の空は常時薄暗いのだから、今が夕刻なのか夜なのか日の高さで判断がつかないのが厄介な所だ。
天井から吊るされた行燈の仄暗い灯りがぼんやりと梁を染めるのを眺めながら壁に凭れかかれば、熱くなった肌に漆喰のひんやりとした温度が丁度良い。
酔いの熱を冷ますようにふうと息を吐き出して目を閉じればそのまま寝てしまいそうな心地になる。
酒に溺れてそのまま思考も何もかもぐずぐずに溶かしてくれたなら、もっと早く酔える筈なのに。頭の隅に居座るとある事柄が理性という名の袖口を掴んで離さないのだ。

「酷い人、さっきから上の空ばかり」

妲己が覗き込むようにして顔を寄せてくるのを両手を上げて抱き寄せる。
膝の上に乗り上げるようにした彼女の整った指先にするりと頬を撫でられて、ああ、もうそんな時間かと察した。
手触りの良い上等の絹地で織られた衣服の上から体の線を確かめるように手を下らせると、同じように頬の手が首筋へ、そのまま白衣を脱がせるように入り込む指。熱を含んだ視線が絡み合う。
このまま部屋の隅に敷かれた床に雪崩れ込むか、どうするのかの確認だ。
それを彼女が口に出して問う事など決して無い。このまま朝まで楽しませて、ガッポリぼったくるのがプロというものだろう。
美女の誘惑はとても魅力的だがー…。

「ごめんね、今日はもうこれで」
「帰りたくないって、顔に書いてありますわよ?」
「…うん、そうなんだけどね」

引き止めるその言葉に白澤は苦笑を漏らす。何を言った訳でもないのに的確に見抜くのだから女性の勘は恐ろしい。
拗ねる妲己にもう一度謝罪して立ち上がれば、思っていた以上に足元が覚束なくて壁に手をかけ踏みとどまる。
ああ、やはり相当酔ってしまった。元からそのつもりは無かったけれど、これじゃ本当に歩いて帰れないなぁ。
手を添えて支えてくれる彼女の体をもう一度抱きしめて、首筋に頬を摺り寄せた。

「ねぇ…もしも、なんだけどさ」

柔らかく滑らかな肌と甘美な香りがこのまま朝まで泊まっていけと誘っている。本音を言えばこのまま一時溺れてしまうのも悪くない。
悪くは無いのだが…。

「嫌いだった奴に嫌われて…口も聞いてくれなくなったらさ、…妲己ちゃんならどうする?」

あまりにも唐突な質問に一瞬きょとんと首を傾げた妲己だったが、何故そんな事を言い出すのかと質問を返す事も無く少しの間を置いた後、にっこりと微笑んだ。

「別に、何もしないわよ。これで顔も合わせなくなるなら大歓迎だわ」

迷う事無く返された回答はとても彼女らしく、そう答えるだろうと分かった上で聞いてしまうその不毛さに思わず苦笑してしまった。
それが当然の反応で、きっと誰に聞いてもそう返ってくるだろう。

「またのお越しをお待ちしておりますわ」

支払の請求は極楽満月の方へまとめて送られる事になっているので、財布の心配はしなくて良い。普段ならば階段を下りて廊下を進んだ先にある出口まで一緒に向かうのだが、妲己はそのまま部屋の窓を大きく開け放った。
名残惜しげに縋り付く彼女にもう一度唇を寄せて別れを告げる。

開かれた窓に足をかけ身を乗り出すと、獣の姿に成った白澤はそのまま空を蹴った。音も無くふわりと浮きあがり、店の遥か上空へと駆け上がるのは一瞬だ。

ある程度高みまで到達した所で振り返ると、先ほどまでいた部屋の窓からは妲己が手を振り見送ってくれている姿が見えた。その横の大通りには大勢の獄卒や妖怪が溢れ、活気と賑わいに満ちている。

その人混みの中にもしかしたらー…そんな事を思う。
誰かと一緒に、もしくは一人で。もしまた偶然アイツに遭遇してしまったらー…。
体中の目があれを探すように動いていた事に舌打ちして、白澤は桃源郷へと戻る為に大きく空を蹴った。




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鬼灯とはあれからもう一度会った。
会ったというか、花街ですれ違ったといった方が正しいのだが、とにかく会ったのだ。
ふらふらと次の店を探しながら歩いている白澤に対し、鬼灯の方は手に何かの書類を持っていたのだから仕事中だったのだと思う。
バッタリ偶然にも。そんな普段通りの出会い方で先に気がついたのはまたしても白澤の方だった。

チャンスだと思った。
誰も連れがいないこの機会を利用して先日の事を問いただそう。前回の反省も含めぎくしゃくした関係の解決を図ろう。
そうしないといつまで経っても胸のモヤモヤが晴れないし、つまりは女の子をナンパするにも身が入らないのだ。
出来るだけ友好的に。
あの闇鬼神に友好的になんて反吐が出そうだという本音は隠して、笑顔で声を掛けた。

「やぁ、偶然だね」
「……」

互いの距離は数歩分にも満たない上に、金棒の射程範囲内だ。
通常ならば、ここに至るまでに1,2発は金棒もしくは拳で殴られている。それ以前に嫌悪感たっぷり、ゴミを見るような視線を寄越して舌打ちの一つでもしている筈だ。
お互いがお互いの顔を判別できるほど、手を伸ばせば触れる事だって可能な距離だったにも関わらず、あの一本角は今回もまた視線すら合わせなかった。
聞こえない振りを装っているとでも云うように、立ち止まらずに横を通り過ぎようとしたのだから、いかに懐が広い神だといえどもさすがに腹が立ったのだ。
そりゃあ原因を作ったのは自分だ。だけど、いくら何でもあんまりではないか。

例えば申請した書類に不備があった時。
酔った勢いで立ち入り禁止区域に入り込んだ時。
逆恨みで式典をぶち壊した時。
仕事中の獄卒の女の子を口説いて職務妨害した時。
薬の注文をすっかり忘れて女の子と遊んでいた時。
それにアイツが居合わせた時。

顔を合わせただけでも機嫌が悪くなる上に性格も何もかもが全く合わない関係の中で、今まで何度も問題を起こしてきた。
だが、それでもその場限りだったじゃないか。
いつも気が済むまで好き勝手殴ってそれで終わり。次に会った時にネチネチ文句を言われるくらい。ちゃんと目を見て会話が出来たし、暴力で解決する方法はどうかとは思うが、こんな風に無視される事は決して無かった。
言いたい事はハッキリ言う。胸の内に溜め込む事はせずに素直過ぎる程に感情を表に出す。そんな男だった筈だ。
それが、酒の席で好きな子がいる事をちょっと笑っただけで?
たったそれだけの事で?
「待てよ!」

過ぎ去ろうとしていた袖を掴んで引き止めた。
声を掛けられた事で、ようやっと視線が此方へと向いたというのに、相変わらずその目は静かで…感情という温度が全く感じられなかったのだ。
冷たいならば嫌悪、熱いなら憎悪。表情のレパートリーが少ないあの鬼の顔の中で唯一饒舌に語っていたその目をのぞき込んでも、何も無い。
前回と同じそれが癪に触る。腹立たしくて堪らない。

「本当にお前…どうしたんだよ」
「……」

それでも返答は無い。
口を効くのも嫌なのか。そう衝動的に沸き上がった怒りに任せて胸ぐらを掴み上げた。

「なぁ、何で無視すんだよ。怒らせた事は悪かったと思うけど、こんな仕返しは反則だ。全然お前らしくない!」

睨んだ事で相手も睨み返しては来たものの、それでも手や口は出なかった。右手は金棒を持ったまま、左手は書類を持ったまま、ぴくりとも動かないのはどうして。

どれくらい無言で睨み合っていただろうか。
ゆっくりと鬼灯の唇が動いた。

「…何の事でしょう?」

反論しようと息を吸い込んだ筈なのだが、声にはならなかった。
何か言わなければ。言い返さなければと思うのに、頭の中にある膨大な引き出しからは何も出ては来ない。
放しなさい。そう軽く振り払われても、白澤は動く事が出来なかった。
開いた口も、掴みあげた右手もそのままだ。

一歩下がったアイツが、乱れた襟元を正しながら冷めた視線を寄越してくるのを茫然と眺めるが、目は合わない。

「急いでいるので失礼します」

抑揚の無い声。遠ざかる鬼灯の背中が人混みに隠れて見えなくなるまで、白澤は呆然と眺めている事しか出来なかった。




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日もとっくに沈んだ桃源郷、店の敷地内へと降り立った白澤は人型へと戻ると、ふうとため息を零す。
衆合地獄への往復の道すがらでさえ人型から獣型に姿を変えて移動するようになったのは、花街でのあの出来事があってからだ。
何故かと言えば理由はいたってシンプル。鬼灯との遭遇を避ける為だ。
空からならばあの鬼と偶然会う事はまず無い。
極楽満月にいなければ顔を会わせる事も無い。
花街をふらふら歩かなければ遭遇もしない。
一度店に入ってしまえば見つかる事も無い。

今までも花街や女の子の所に出かける事は多かったが、あの事があって以来馴染みの店に入り浸る回数は格段に増えていた。

(こんな事、今までなかった)

若草の伸びた畦道を歩きながら小さくため息を吐く。
これが新しい嫌がらせだというなら、効果は抜群だろう。
理不尽な暴力を振るわれても、胃潰瘍になりそうな程凶悪な視線を向けられても、あの鬼の事を「怖い」など思った事がなかったのに。今の自分はどうだ。
会うことが怖い。あの目をのぞき込む事が怖い。
お前など知らないとでも言いたげな視線が、瞼の裏に張り付いている。
まるで、他人のフリだ。


(そういえば、あの呪いも確か同じような効果があるんだっけ)

ふと左の掌を見る。
傷はもうすっかり塞がっていたが、痕はまだ消えてはいなかった。小刀で傷を付けた時のまま、真っ直ぐに走る跡。
ぷっくりと瘡蓋の張った表面を撫でれば、未だにジクジクと痛い。

好きな人が目の前にいても分からなくなるという魔女の谷特製の恋の呪い。
鬼灯の一等好きな人。最も心を占める人を目の前にしても当人だと気が付かない。偶然手に入れたその呪いの札を鬼灯に仕掛けてから、今日でどれくらいになるだろうか。
西洋の製品には謎が多い。もしかしたらこの傷も呪いによる何かが関係していて、これが消えた時に呪いも消えるのかもしれないなら、まだ呪いは発動中という事になるだろうか。

きっとこんな感じなのだろう。
嫌いな奴がされてもこのダメージなのだ。好きな子なら尚更ショックだろう。
あのふわふわロングの女の子には申し訳ない事をしたなぁと思う。顔も名前も知らないけれど、女性が傷つく姿は想像して気持ちが良いものじゃない。
こんな事なら鬼灯の想い人のあの子を探し出して、向こうに呪いを仕掛ければ良かったんだ。そしたら彼女に無視されて落ち込む鬼灯を笑って見れたかもしれないのに。

(あ、でもアイツの片思いなら意味無いか…)

やはりこの呪いは使えない。
そんなに強い効果のものでは無いと聞いているし、その内あっけなく呪いは消えて元通り。そうしたら、アイツはいずれあの子に愛を告げるのだろうか。

「ああ、何か…嫌だ」

もやもやと胸がざわつくのは何故だろう。
このまま無視を続けられる事を想像するよりも、その事を考える方が苦しいなんて。一体どうしてしまったのだろう。


ピピピピッ

ポケットに入っていた携帯が着信を知らせる。
開けば画面に小さく表示された発信元は今一番見たくない名前だ。


送り主:闇鬼神
件名:なし
本文:○日 黄蓮1束・山査子100g・いつもの。


ボタンを押してメールを開けば、文章とも呼べない単語の
羅列のみ。ちなみに”いつもの”というのは鬼灯が定期的に注文してくる薬の事だ。
そういえば、そろそろ無くなる頃だったろうか。

「何だよ…薬の注文だけは普通にして来やがって」

会っても無視するくらいなら桃タロー君にでも言付ければ良いんだ。悪質な嫌がらせを続ける気なら、薬だって此方に頼らずに自分で何とかすれば良いのだ。
あんな鬼の事など嫌いだ。大嫌いだ。
…そう思っていた。
顔を会わせれば喧嘩をして殴られて。文句を言って、言い合ってを何百年と繰り返してきた。そんな充実していた日々が酷く懐かしく思える程に日常の一部になってしまっていたのだ。
当たり前すぎて気が付かないフリをしていた事を自覚して、ため息を吐きながら足元に蹲る。

周囲は木々や葉がさざめく音のみ。夜風が酔いの冷めた肌を優しく撫でてゆく。
日中動き回っている兎達も、もう巣穴に戻って眠っている頃だろう。

(何もしない。これで顔も合わせなくなるなら大歓迎)

先ほどの妲己の言葉を思い出してみる。
これで僕は嬉しいのだろうか。このままの状態が続いて大歓迎?
アイツが絶対に来ない所に逃げ込んで会わないようにしてるのに?自分の店にいる事すら出来なくなっているのに?
そのくせ、何処かにいないかと無意識に探してしまうのに?
(そんな訳、ない)

喧嘩ばかりで、理不尽な暴力にいい加減うんざりしていた。心の底から大嫌いだと言える相手だった。
…だった、のだ。

「くそ、やっぱ大嫌いだ…」

立てた両膝に顔を埋めて誰に言うでもなく呟く。
今更気付いてしまうなんて、何て最悪なんだろう。



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