神獣の呪いと鬼神の想い人について 弐




開け放たれた窓から、暖かな日差しが差し込んでくる。
じわりと肌にまとわりつく汗を敷布で拭い、未だ夢見心地の白澤はゆっくりと寝返りを打った。
酷く頭が痛い。ああ、また二日酔いか…。こんなにも頭痛が酷い朝はいつぶりだろうかと思い出すのも面倒で、起き上がる気力は沸いてこない。

「白澤様!!いいかげん起きて下さい!!」

台所へと続く扉の向こうからドンドンと叩く音と共に弟子の声が耳に響いてくる。
この怒り方は恐らく開店時間だ。朝食の時間にも一度声を掛けられて、おざなりに返答をしたのをぼんやりと思い出して枕に頬を擦りつける。
体調不良を理由にこのままそっとしておいて欲しいのに、じきに布団をはぎ取りに入室してくるパターンに発展する事は毎度毎度お決まりになっている恒例行事だ。
これ以上放置していると、お母さん状態になった桃タロー君の愚痴という名のお説教を酷い体調で正座して聞かなければならないのはちょっとかんべんして欲しかった。
弟子として生活を共にするようになる前ならば、きっとこんな日は店も放置して夕方までだらだらと寝ていた事だろう。
どんなに二日酔いが辛くとも無理矢理にでも朝起きて一日を始める。それは当たり前の事と云われてしまえばそれまでだが、独り身のその日暮らしの自営業といった良くも悪くもマイペースが正当化してしまう昔と比べると、格段に規則正しい生活になった今の状態を白澤はそれなりに気に入っているのだ。

「うん、起きる。今起きるよ」

何度か自分に言い聞かせるように繰り返せば、次第に思考がハッキリと覚醒してくる。
重い瞼を開ければ朝というよりはもう昼に近くなった陽光が部屋全体を明るく照らしていて、のっそりと体を起こす。
予想していた起床による吐き気は無く、ぐしゃりと痛みの残る頭を掻いて寝台に伸ばしていた足を床へと下ろすが、立ち上がるまでは至らない。
視線を落とせば昨日の衣服のままだった事に気が付いた。戻ってからも寝着に着替えずにそのまま寝てしまったらしく、白衣は酷い皺でグシャグシャになっている上に酒と煙草の臭いが強く残るのが少々不快だ。
立ち上がるついでに白衣を脱ぎ捨てて、裸足のまま戸口へと向かう。乱れた寝台と脱ぎ散らかした服や靴は後で桃タロー君が何とかしてくれるだろう。
また怒られちゃうなぁと苦笑いを浮かべつつも面倒さが先だってそのまま扉を開ければ、やはり「何ですかその格好は」と呆れ顔でお小言を受けて、予想通り過ぎてちょっと笑ってしまった。

「ああもう、着替え用意しますから顔洗ってて下さい」
「明白了〜」

洗面台の前に立ち、流れ落ちる水に両手で掬い取り何度か顔を濡らせば、ひんやりとした感触が心地良い。
そういえば風呂にも入っていないし、浴場で軽く汗を流すくらいしようかと迷いながら、ついでに寝汗を拭うように首まわりや額、首の後ろも濡らした手で撫でる。

「…?」

ふいに感じた違和感に顔を上げた。
正面の鏡に映るのは寝起きのだらしない自分の顔だ。髪は寝癖が付いているし顔色は最悪。酷い頭痛で眉間に皺が寄っているし、これは女の子には見られたくない姿である。
いや、そういう事じゃなくて。

「…あれ…?」

ふいに、水に濡れた両手を見て一瞬ぎょっとする。
左掌の内側に出来た傷口からじんわりと血が流れていたからだ。
ふわりと鼻先に漂う血の香り。それが違和感の正体だと気が付いた時には、顔に触れた時に付着したらしいその色が水と混ざり合って、皺だらけの衣服の襟元をうっすらと赤く染め上げていた。

何だっけコレ…。
酔って転んだ時に出来る擦り傷とは違う其れは直線的。まるで刃物のような鋭い何かで切ったかのようだ。
例えば金棒で頭を強打されても、骨を折られても数秒で元に戻ってしまう体だ。それだけの治癒能力があると自他共に認める神獣の掌に走る傷は、一体いつ付いたのだろう。血さえ止まっていない程ならば寝室から洗面台に立つまでだろうかと考えたが、扉や蛇口は全て右手で触れているし、ここまで来るまでに左手が何かに触れる機会など無い。通りすがりにうっかりスパっと切れるものをむき出のまま室内に放置する筈がないし、もしそうだとしても当たった瞬間に痛みで気が付くだろう。

まさか寝ている間だろうか。
だが寝台の上には何も無いし、いくら盛大に寝相悪く寝ていたとしても手足が届く範囲は限られている。あり得ない。
こんな傷跡ならば通常であれば1分としない内に痕さえ残さずに癒えているのに、結局洗い終わった顔の水分を拭き取った時ですら白いタオルに血痕が僅かに付着しているのは妙だとぼんやり考えながらも、弟子が用意してくれた清潔な衣服に着替え終わる頃には、血は完全に止まっていたので気にしない事にした。

台所に向かえば、温め直された朝食が机の上に置いてあるのが目に入る。
二日酔いで体調の悪いらしい師匠の為に、軽めの食事と黄連湯。
作ってくれた本人は掃除をしているらしく、庭先から箒の音が聞こえてくる。
規則正しい其れを聞きながら白澤は小さくお礼を言って湯気の立ち上る湯呑みを持ち上げると、ゆっくりと口付けた。


足下で従業員の兎達がぴょこぴょこと動き周り必要な道具を運んでいる。
採ってきた薬草を仕分ける小皿、倉庫に干していた果実や植物。細かく擦り潰したもろもろが入っている小瓶など。ああ、あの子が持ち上げている擂鉢は兎1羽だけでは重いのだろう。ヨタヨタとおぼつかない足取りで歩く小動物の動きは見ていて可愛らしいが、ちょっと危なっかしくもある。

「ほら、これはお前だけじゃ重いだろう。僕が運んでおくよ」

ひょいと持ち上げれて助けてやればぺこりと頭を下げて再び別の道具を運ぶ為に奥へと駆ける兎を見て頬が緩む。
食べ終わった食器を洗い場へと下げて、ずっしりと手に馴染む擂鉢を手に店へと顔を出せば、外の掃除が終わったらしい桃太郎が濡らした雑巾で棚を拭いている所だった。

「白澤様、店に出してあったこの箱って一体何ですか?朝来たら中身が散乱してましたけど、戻していいです?」
「あぁ、それは不要品とかを入れてる箱で、そこの棚の一番端に戻しておい…て、……あ、そっか」
「どうしたんです?」
「…ううん、何でもないよ」

思わず掌の傷をもう一度見る。血は止まっているが切れた箇所は未だ消えてはいない。
また何か刺激を与えれば再びぱっくりと開いてしまいそうな薄皮の張る傷口は、間違い無い。あの時のものだ。
あの箱に入っていた呪いの札を使用する為には贄として血が必要なのだとリリスが話していた。だからあの時、アイツの部屋にあった小刀で手を…。

あの時の事を思い出して、背筋がぞわっと冷える感覚に身震いして思わず口を押さえる。

「大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」
「…うん、」

二日酔いがまだ残っているのかと勘違いした桃太郎が背をさすってくれながらコチラをのぞき込むが、口を押さえたのは吐き気の為では無い。
思わず、アイツの名を口走ってしまいそうになったからだ。

「…桃タロー君」
「はい」
「昨日さ、僕…どうしたっけ…」

一言一言選んで問うた言葉に、桃太郎の表情が一瞬曇った。
話して良いのかと迷っているようでもあり、怒ろうかと考えているようでもあるが、それも直ぐに普段の表情に戻ると、拭き掃除を再開させながら口を開く。

「鬼灯さんに口喧嘩ふっかけて返り討ちに合ったんですよ。白澤様はその衝撃で店の壁をぶっこわした挙げ句首の骨が折れて全然意識が戻らないし、店からは壁を弁償しろって言われるし…、もう大変でしたよ」

呆れ半分と、やっぱり泥酔して覚えていないのかこの駄目神獣は、という諦めも混じった文句に白澤は苦笑いを返すしかない。
一升瓶1本で壁まで突き破るとは一体どんだけだよ…というお門違いなツッコミが頭をよぎったが、それはともかくだ。

「…アイツは?」
「鬼灯さんですか?それなら直ぐに帰りましたよ。けど1発で白澤様を見逃すなんて珍しいですよね」

てっきり原型が残らないくらいボコボコにされて店の中が神獣の残骸で真っ赤に染まるのかと思ってましたけど。そう爽やかに笑う桃タロー君の様子に、普段どんな目で師匠を見ているのかと少し心配になる。

「あー…えっと、ごめんね。迷惑かけちゃって、閻魔大王や獄卒のみんなにも謝らなきゃだよね…」
「俺は気にしていませんよ。閻魔大王もいつもの事だって笑ってたし。逆に気絶したままの白澤様の心配をされて…あ、けど鬼灯さんにはちゃんと謝った方が良いですよ」
「でも僕、首の骨折られたんでしょ…壁の修理代だってアイツが原因だし…」
「今回は100%アンタが悪いです。ほら、鬼灯さんから頼まれていた薬の納期は今日ですよ。いつも待たせてるんですから、今日くらいちゃんと守ってください」
「…えぇー…」
「えー、じゃない!!ちゃんと働け駄目神獣!!」
「はぁーい」

桃タロー君の様子に、少しだけ安堵する。
昨日の帰り道、意識の戻っていない振りをして聞き流したあの時のような怒りはもう無いようだ。
本当になんて良く出来た弟子だろう。
きっとそのせいでせっかくの飲み会もお開きになった事だろうし、あまり会う事が無くなった旧知の友との語らいを楽しみにしていただろう。台無しになってしまった事を申し訳なく思う。
トラブルを起こした挙句意識の戻らない自分の代わりに、閻魔大王や獄卒の皆、果ては店の主人にまで謝罪してくれたというのにそれを根に持つ事は決して無いのだ。


「ちょっと、今日の納期って多くない?」
「散々さぼった結果でしょう。自業自得です」

投げて寄越された納品リストの束をパラパラとめくって少しげっそりする。
ああ、何が嬉しくて野郎からの注文を納期通りに作らなければならないのか。それもあの闇鬼神の注文だと思えば思うほど気が乗らない。もっと愛嬌がある可愛い女の子の注文なら納期厳守な上余計な愛情込めまくって作ってあげるというのに。
まぁ…けども。

(あの時は、どうかしていた)

あんなに負の感情に支配されて衝動的に動いてしまったなんて、初めてだったから。
束になった納期リストを捲って、第一補佐官の名が記された紙を一番上にしてクリップで止め直した。

(今日だけだ)

チクリとした罪悪感が、胸の奥で少しだけ痛むからだ。
アイツが来ても開口一番に喧嘩が始まってしまうだろうし、桃タロー君の言う通り…せめて納期くらいは守ってやろう。
今日も出来ていないと思い込んでやって来る鬼の出鼻を挫いてから、先手を取ってやろう。
そしてもしも、もしも機会があるならば、”ごめん”の一言くらい言ってやってもいいかもしれない。

(あんな顔…するなんて思わなかったし)

慕っている人がいると言っていた。
あの冷徹で仕事中毒でマイナスのイメージしか浮かばないあの鬼がだ。あの無表情でしかないハシビロコウの顔が一瞬でも柔らかく緩むほどに好きな人。
それを嘲笑った時のあの顔が、瞼の裏に張り付いて離れないからだ。大嫌いな相手ではあるが、他人の恋路を笑う権利は誰にも無いと少しだけ反省したからだ。

「兎達はコレと、あとそっちにあるのを擦り潰してね。桃タロー君は大鍋でお湯を沸かしてソレを煮込んでくれる?」
「はい」

指先で弟子達に指示をして、自らも生薬の入った瓶を幾つか手に取り、匙で取った中身を天秤にかけ分量を仕分けて混ぜ合わせてゆく。
酷い頭痛はだいぶ収まっていた。二日酔いにしては回復が早いなとふと考えながらも、胸のあたりがチリチリと痛むその本当の理由を、白澤は昨日の酒のせいに置き換えて、気にしないようにした。



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