その声はどこまでも静かに。だがハッキリとした音で恋次の鼓膜を震わせた。
今、何と聞こえた?
愛しい。
愛しいだと。
「冗談は、よしてくれ」
「冗談などではない」
「……、」
(…、ふざけるな)
どの口がソレを言うのか。
こんな時に、今の場にそんな単語が出てくるなど。何かの冗談としても笑えやしない。
散々自分の中を引っ掻き回して。体の中も心の中も支配して。
これが愛だと?冗談じゃない。
「恋次」
掴まれた腕をぐいと引き寄せられ、縮まる距離に恋次はびくりと体を強張らせた。
抱きしめられる、そう思ったからだ。
「嘘だ…、嘘だ!!だってそうだろ!だって…っ!」
手をつっぱね慌てて叫んだ声は妙に上ずっていたが、今は情け無いと思う余裕すら無い。
あの凍えるような冬の絶望的な夜を、恋次は忘れる事などできはしない。
尊敬も羨望も踏みにじられて、拒む事も許されなかったあの夜。
それから始まった事は決して愛などという感情とは程遠く。それは暴力的で一方的な行為だった筈だ。
「合意の上で無い事は承知している、だが私は」
「言うな!!」
真剣な眼差しの白哉が恐ろしく、一層声を荒げて遮った。
聞きたくないと言うよりは、理解出来ない。
そんな訳のわからない言葉なんか理解したくもない。
そんな理由を今更聞きたくない。
不快だ。吐きそうだ。
「俺はっ!俺は、アンタなんか…」
ざわりと背筋を駆け上がる感覚に唇が震え、まるで自分の声ではないような気さえした。
こんな感情なんか知らない。こんな苦しさなんか知らない。
檜佐木を巻き込んで、裏で手を回して。ルキアまで。その上、愛などと訳の解らない事を。
なんて身勝手な男なんだ。なんて最低な奴なんだ。
なんで…俺は。
「アンタなんか、大嫌いだ」
感情のまま吐き出した言葉に自分自身の心が押しつぶされそうだった。
今までは要求されるままに受け入れるか、無かった事にして心の奥底で留めるだけで、決して正面から逆らいはしなかった。そうして流されて続けてここまで来た結果、ようやく初めての抵抗。
そういえば、と思い出す。
白哉に対しこんなにもハッキリと拒絶を見せたのは初めてかもしれない。
まるで癇癪を起こした子供のようだ。
何も聞きたくないし、理解したくない。こんな状況から早く脱したい。
以前の自分が淡く望んでいたのは、こんな決別のような今の状況では決して無かっただろうに。
そう冷静に考える事すら出来ずにただ喚き散らすだけの恋次を白哉がどう感じているかなど、本人は知る由も無い。
「……そうか」
ぽつりと落とされた呟きに恋次は勢い良く顔を上げたが、激情に揺れる恋次とは対照的に、白哉は今も能面を崩さない。
ただぽつりと呟いた声さえ冷たく、無感情に聞こえた。
あれほど強く離そうとしなかった白哉の手がゆっくり腕から恋次から離れてゆく。
1歩身を引いた白哉はそのまま開けられたままの仏間の扉を閉じた。
飾られた写真の彼女は儚げな笑みを絶やす事は無い。
音も立てずに閉じられた扉。何も無い部屋。
「ならば、私はもうお前には触れぬ」
自分を見る事なく呟かれたその声に、恋次は先ほど叩かれた以上の衝撃を受けていた。
言い返したい事は沢山ある筈なのに、口からは浅い呼吸しか出てこない。
望んでいたのはこんな答えでは無いのに、何か言い返さなければならないのに、何も出てこない。
その間にも、白哉は恋次に背を向けてしまった。
「……っ」
たいちょう。
そう動いたのは唇だけで、喉の奥から音になる事は無い。
静かに吐き出された言葉に、向けられる冷たい眼差しに。ついに堰を切ったように頬をつたうのは涙。
それは後から後から流れ続け、留まる事を知らず頬を濡らし床へと染み込んでゆく。
痛い、痛い痛い痛い。
「用があれば呼ぶ故、しばらくは檜佐木の傍にでも付いてやれ」
職務にも差し支えかねない今の状態では、仕事に復帰しても使い物にならない。そう言い残し去ってゆくその人は最後まで静かだった。
その声が何故か酷く優しげに聞こえて、ますます恋次は込み上げてくるものを抑える事ができない。
以前に、檜佐木が愛しいかと言われた時の事を思い出す。
ゆっくりと近くなる白哉の瞳は暗く静かで、そのまま動かずに白哉に促されるままであれば口付けられるだろうと思った。それを拒んだ時も、確かあの男は同じ事を言ったんだ。
そうか、と。たった一言だけ。
それだけで、あの時は希望に満ちた気持ちでいられたのに、今この状況は何なのだろう。
この絶望的と言えるこの感情は何なのだろう。
扉が閉ざされて、一人残された室内。
嗚咽を抑えてそのまま膝から床へと崩れ落ちるようにしてしゃがみ込む。
「な、んで。だよ」
誰もいない部屋で呟かれた声は涙と共に床へと消え、次第に嗚咽へと変化してゆくのに大した時間はかからなかった。
口を掌で押さえても声を上げる事を止められず、拭っても拭っても溢れる涙は着物の袖をぐっしょりと濡らしてゆく。
一人きりの部屋の中でまるで子供の様に恋次は泣いた。泣いても泣いても心は一向に晴れる事無く、むしろ泣く程に助長されてゆくような気がしてまた泣いた。
自分は白哉など嫌いだと言い、白哉もそれを聞き入れた。
もう触れないと、そう誓った。
望んでいた事が遂に叶ったのだ。
こんな関係を変えたいと思っていた恋次にとって、今この時は喜ばしい事の筈なのに、何故こんなにも悲しいのだろう。
胸の奥から競りあがってくるのは決して喜びからくる涙でも、ましてや嬉しいという感情でも無い。
疑惑と困惑と怒りを全てぶつけた結果、最後に残ったこの感情を一体何と呼べばよいか分からない。
しゃくり上げながら呼んだ名の人はもうこの場にはいない。つい先程さっさと見切りをつけて、自分を残して出て行ってしまった。
あれほど自分を支配し悩ませた元凶は「そうか」の一言で、話を終らせてしまった。
愛しいとまで言ったくせに、さっさと部屋を出ていってしまった。振り返る事すら、無かった。
もう戻る事は無いだろう。
自分と白哉の関係とは、その程度の事だったのだろうか。
「そうか」の言葉ひとつで今までの事や関係は全て片付いてしまったのか。
恋次が嫌と言えばそれで終わる程度の、そんな軽い関係でしかなかったのか。
「…、たっ…ぃ…っ」
何故それがこんなにも悲しいのだろう。
声は届く事無く。涙は止まる事なく流れ続けるばかりであった。
fin...
■あとがき
鬱金香=チューリップ
花言葉は「愛の告白」
01 / 02 / 加籃菜
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