どれくらいの時間だろうか。

5分か、それとも1時間か。恋次は未だ扉に手をかけ開いた常態のまま、その前から動けずにいた。


何度見てもその写真が変わる事は無い。
これは、一体何の冗談だろう。
誰かが悪戯に中の写真をすり変えたのだろうか。ある筈の無い幻でも見ているのか。
そんな馬鹿な事がある筈がない。
現実を受け入れたくない頭の中にはそんな非常識な事ばかりが浮かんでは消え、立ち尽くした両足も扉を掴む指も、動く事を忘れている。

「ルキア…」

儚げに写るその微笑から懐かしさが込み上げてくる。写真の中の女性は自分の知るルキアよりか儚く弱々しい印象を受けたが、誰が見ても間違い様も無い程にそれは彼女に似ていた。
頬から顎のライン、鼻筋、目の大きさ、髪の質感。それでも双子か姉妹かと思える程の似通った顔立ち。
唯一違うと言える事は、この写真が随分と昔に撮影されたのものだろうという事くらいだろうか。

学院時代の、あの別れた時の事が鮮明に脳裏を駆けた。



−「朽木家に養子に来いと言われた」−



不安げに見上げたルキアの背中を押したのは、手を離したのはルキアに誰よりも幸せになってほしかったからだ。
こんな顔が似てるだけの見ず知らずの女の代わりをさせる為なんかじゃない。
顔が似てるだけで良しとするような男にくれてやる為なんかじゃない。

…俺は、なんて事をしてしまったんだ。
なんて安易な考えでその小さな手を手放してしまったんだ。
そうして沸き上がるのは焦燥、後悔、罪悪感。

それと、もう一つ。



「此処で何をしている」


突如背中に投げられた声に、恋次はびくりと肩を震わせた。振り返る勇気は無く、視線は未だ写真から逸らす事ができない。
背中から感じる声、霊圧、威圧感。背後に立つ相手が誰なのかなど考えるまでも無く、ようやく恋次は自分の置かれている立場を思い出す。
そうだ。この部屋は白哉の個人的な空間であり、招かれてもいない自分が立ち入るなど、あってはいけない場所である事。そして自分は直ぐに白哉の待つ執務室に報告をしに行かねばならない事をすっかりと失念していた。
直ぐに出ていくつもりでこの部屋に入った筈なのに。あまりにも心囚われて、何も考える事ができなかった。

「報告も疎かに何処にいったかと思えば貴様、…」

声をかけても振り向かない恋次に焦れてか、白哉の声はわずかに怒気を含んでいる。
だがそれでも恋次は動く事ができなかった。
足音が序々近くなり、白哉の気配がすぐ後ろに迫っても、恋次は動けない。

「恋次」

その声が自分を呼ぶ。
ぐいと肩を引かれて強引に振り向かされ、ようやく動く事のできた恋次の視線の先には、やはり見慣れた人が無表情のまま佇んでいた。
ああ、なんて久しぶりなんだろう。
期間にすれば半月にも満たない僅かな時間なのに、随分と久しぶりに顔を見た気がして、だけど普段と何も変わらないその人の様子に何故か心がざわつくような…そんな感情になる自分が可笑しかった。

「隊長、…」

この写真の女性は誰なんですか。なんてこんなにルキアに似てるんですか。
そう問いたいのに、暗い瞳の色を覗き込んでしまえば声を出す事ができない。
もし問い質したとして、市丸の言う事が全て正しいとしたならば、間違い無く自分は奈落の底に突き落とされてしまうからだ。
自分の愚かさを痛感し、絶望するしか無くなるからだ。

「ここで何をしている」

再度問い質す白哉の強い声。
視線が自分から遺影の女性へと移り、そして自分へと戻る。その間も、恋次は何か言わなければと気焦る事も忘れ、ただ重い沈黙だけが流れるだけ。

「…何を言われた」

何も言おうとしない恋次に、焦れた白哉が口を開く。質問を変えられ確信を突かれた事に対し目に見えて動揺する男を前に、白哉はその表情を一層険しいものにした。
人というものは不確かな情報であったとしても、何故こうも簡単に振り回されるのか。
白哉も恋次が報告を怠ろうと思い此処へ逃げ込んだという事では無い事くらいは分かっていた。
開かれた扉から見える亡き妻の写真。普段と明らかに違う態度。
何を吹き込まれて、何の目的でこの部屋に入ったのかなど白哉には簡単に理解できたのだ。

頬の肉は落ち、狼狽した顔色は酷く悪い。
この男らしいと言えるほどの明るい笑顔も、威勢の良い声も、強い意思さえも、今の恋次には残ってはいなかった。

(ここまで追い詰めたのは紛れも無くこの私か)

自傷ぎみに心の中でそう呟くと、だからこそ白哉は続けた。



「…誰に何を言われたかは知らぬが…貴様には関係の無い事だ。」






…関係無い。
その言葉に僅かに遅れて恋次が反応した。
不安げに揺れていた瞳は鋭く燃えるような紅へと変わり、じわじわと湧き上がってくるのは怒りの感情。
ここまで自分をぼろぼろになるまで巻き込んで、何が関係無いのだ。
まるで何かに堰かされるように、恋次は強い口調で問うた。

「この人の身代わりをさせる為にルキアを養子にしたって本当ですか」

先ほどまで恐怖にも似た感情で堰きとめられていた言葉がするりと零れてゆく。口に乗せた事で更に助長されたのか、爆発しそうな程の怒気を押さえ込むような低い声。
だがそれにも白哉は答えない。

「檜佐木さんをあんな目に合わせたのも、アンタの差し金なんだろ」
「………」

「俺が、目障りですか」
「……恋次…」

「影で手ぇ回すほど、そんなに俺が嫌いだったのかよ!殺したいほど嫌いだったのかよ!!」


散々振り回してきたくせに。
押さえつけて好き勝手したくせに。
関係無いなどと、よくも。

「最低だ。アンタ、本当に最低なっ!!」



バン、と酷く大きな音が耳の奥に響いた。
視界がぶれた事により初めて恋次は自分の頬が、白哉の掌で叩かれたのだと知ったのだ。
無意識に目の隅に入ったその白い手がゆっくりと下げられるのを追いかけながら呆然となる。
何があっても動じないと思っていた白哉が感情に任せて手を上げた。そう、自分に手を上げた事すら、信じられないという程の衝撃であった。
だがそれも一瞬の事。
次の瞬間には反射的に湧き上がった怒りに任せ、殴り返そうとふり上げた腕は白哉に掴まれ阻まれた。

「私はルキアを後添えとして養子に入れた訳では無いし、檜佐木の件も私は指示してなどおらぬ。貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか」

体格は明らかに自分の方があるというのに、捕まれた手首はびくりとも動かない。
声はあくまでも冷静であったが、掴まれたままの腕から感じる痛みと普段無い強い口調から白哉の怒りが伝わってくる。
ひり付く頬の痛み。強く止められた腕の痛み。振りほどこうと力を込めても白哉は腕を放そうとはせずに、ただ真っ直ぐに恋次を見るだけであった。
そうしてどれ程の間無言のまま睨み合っていただろうか。
始めは興奮したまま睨み返していた恋次も、根負けし力無く項垂れるのに時間はかからなかった。

「…隊長」

視線を外したまま、ぽつりと恋次は呟く。

「もう、あんたが何考えてんのか、分かんねぇ。」

分からない事だらけで、もう己の思考すらうまく整理できなかった。
こんなにも胸が苦しいのは、一体何の性なのだろう。何がこんなに自分の胸を締め付けているのだろう。

「一体、アンタ。俺をどうしたいんだ」

周りの情報に振り回されるばかりで、真実など何一つ分からない。
一体何を信じれば良いのかも、何を信じたいのかも。自分の事すら、今はもう分からないのだ。

「…どうもせぬ」

嘘だ。
恋次は黙ったまま首を振る。
どうもしないなら何故自分はこんなにも振り回される。
情けなくて、鼻の奥がつんと痛くなって恋次は視線を下に降ろした。

「隊長。なぁ、ちゃんと言ってくれよ…」

擦れたか細い音。なんと情けない声だろう。
之ほどまでに弱々しい声しか出せなくなっている自分が酷く情けなかった。
これでは白哉も呆れている事だろう。散々な事しかしない自分を、呆れて見限ってくれれば良いのに。
そう恋次は投げやりな気分になってくる。


「…二度は言わぬぞ」

長い沈黙を破ったのは低い声。
俯く恋次の頬を拘束していない方の指先で持ち上げた白哉は、恋次の不安げに揺れる瞳に視線を合わせてぽつりと呟いた。



「私はお前が愛しい。それだけだ」





01 / 02 / 加籃菜



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