凶叫が深い森一帯に響き渡り、鼓膜が嫌なほど震えた。
月明かりに照らされて薄らと浮き上がるのは直視し難い惨状で。
肉片と血液が腐臭を漂わせ、思わず喉の奥からこみ上げてくるものを口を押さえる事で何とかやり過ごす。


振り上げられた大きな爪が明るく輝く月を隠してゆくのを、ゆっくりとした動作で見上げていた。
耳の奥の鼓膜を嫌でも揺らす程の狂声が至近距離から響いているのにその音すら遠く、腕の中に抱いたその人をもう一度強く抱えなおす。
動かないその人から流れ続ける血液が指の間から服へと伝わり酷く熱いのに、首筋伝う汗は酷く冷たく、早く何とかしなければ命に関わる。
振り下ろされる鋭い爪を避けなければならないのに。
逃げなければならないのに。


冷たく背筋を這い上がってゆく焦燥感ばかりが体中を駆け巡り、手足は金縛りに遭ったように思うように動いてくれそうもない。
気がつけば、呼吸する事さえ忘れてしまいそうだ。


 ああ、何で
 なんで、こんな事に。

声とも付かぬ雄叫びと共に振り上げられた巨大な腕が自分らへと下ろされる様を、目を逸らす事も出来ずただ見上げていた。
月明かりにその歪な爪が煌く。
耳鳴りが止まない。


 ああ、
こんなにも




[唐綿の屍]








「恋次」
「……」

「おい、恋次」
「…もう少し…」

「おい!起きろっつってんだろ阿呆!!」

生ぬるい微睡を、強烈な蹴りで一気に現実に引き戻された。
朝日の染みる目を何とか開けると、頭上にはきっちりと仕度を終えた檜佐木の姿。

「もうちょっと、優しく起こしてくれてもイイじゃないすかー…」
「気色悪ぃ事言ってんじゃねぇよ半居候が。起こしてやっただけでも感謝しろ」
「腹…痛ぇ…死ぬ…」

素直に起きてりゃ良かったんだ。
そう怒りながらも着替えを投げてくる檜佐木は言動こそ乱暴だが、その表裏の無い誰にでも平等に接する所が今の恋次にとってはありがたい。
のろのろと袖を通し、櫛など必要ない檜佐木の部屋にわざわざ常備させてもらっている自分の櫛を手に取る。
寝癖の盛大に付いた髪を梳いてゆく間に、檜佐木は先に出勤すべくさっさと部屋を出ていってしまうようだ。

「遅刻すんなよ」

時計を見ると、まだまだ余裕のある時間帯。
自分に合わせて早めに起こしてくれるのに感謝しつつ、笑ってその背を見送った。






なんで!


道無き道を走る恋次はその言葉をひたすら頭の中で繰り返していた。
深い深い森の中。
冷静になどなっていられない状況でただ我武者羅に駆け抜ける。
息が切れ、足がもつれそうになるのを堪えて大声でその人の名を呼ぶが、帰ってくるのは風の音だけで。感じる霊圧は近くの筈なのに酷く弱弱しく位置さえ特定できない事に焦る。
もう一度名を呼ぶが、返答は無い。

ふいに目の前に現れる黒い大きな影に、開放していた刀を握り直し構えた。
懐へ忍び込み一太刀、四散する影を振り返る事もせずにまた駆けるものの、影は次から次へと現れる虚の軍勢。

なんという程の数だろう。
再生のスピードも速く、これではキリが無い。


「糞っ!報告とまるで違うじゃねぇか!!」

避け損ないの頬の傷から汗と共に流れる血を乱暴に拭い取り、恋次は勢い良く目の前の影へとめがけ刀を振り下ろした。




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「朽木隊長、阿散井です。」
「入れ」


任務を数日後に控えた夜、久しぶりに隊首室に呼ばれた。
この頃は九番隊との打ち合わせが多く、白哉も白哉で隊を空けている事が多かった事から顔を合わせるのは朝と晩の報告以外無いに等しい。その為に白哉の私的な時間帯に二人きりになる事も少なく、この時間にこの部屋へ赴く事は本当に久しい。
静かに障子を開くと、部屋の主は僅かに炊かれた灯りの下で書物を広げている所だった。

普段ならば、このまま衣服を抜ぎ、肢体を晒して奉仕する事が始まる。
だがあの夜から自分は此処に来る事を拒んでいた筈だ。…今日はどのような風の吹き回しだろう。
やはり白哉は普段通り、枷の為に自分を呼んだのだろうか。
もしかしたら自分の発言などすっかり忘れているのだろうか。
そして今回も、その様にすべきなのだろうか。

「何をしている」

来い。振り返ったその人にそう視線で促され、恋次は立ち尽くしていた戸口から敷居を跨いで入室した。
普段よりもゆっくりした足取りで歩を進め、白哉の数歩後ろで止まると、白哉の視線に合わせる為腰を下ろして控える。
だが、そこから何をして良いのか分からない。
視線を上げるものの、真っ直ぐに此方を見据える白哉の視線が痛くて直ぐに逸らしてしまいたくなる。酷く落ち着かない。

糞、情けねぇ。

思い返せば、枷以外の目的でこの部屋に入った事が無いではないか。
あれほど肌を合わせてきたというのに、職務以外の時間で白哉にどう接して良いのか分からない。
何の御用ですか。そう切り出せば会話は始まるのに、伽の為だと確定付けられ、そこから何時ものように組み敷かれる事を想像すると中々心重く口が開かない。
その他にもつらつらと構想を巡らせてみても、今の恋次にこれから先思いつく事といえば、やはり衣服を脱ぐ事くらいだ。

その結論にしか達する事ができず情けない気持ちで俯く恋次を、白哉は唯真っ直ぐに見つめている。


「今日呼んだのは、伽の為ではない」


しばらくの沈黙の後、未だ恋次から視線を外すことの無い白哉が口を開いた。
その言葉に、はっと恋次の顔が上がる。
久しぶりにまともに見た白哉の顔は普段より幾らか寛いでいるような…穏やかな顔で、卓上にあった書物を閉じ頬杖をついて滅多に見る事のできない微笑を漏らしている。
その顔に、ビクリと肩が震えるのを覚えた。


「故に、その様な顔をするな」


慌てて口元に手をやり表情を隠したが既に遅く、ますます白哉の目が細められる。
心を読むまでもなく、それほど顔に出ていたのだろう。羞恥で頬が熱くなるのを感じ、いたたまれなくなって視線を横に逸らした。


「貴様は本当に分かり易い男だ」
「…、っ。じゃぁ何の御用なんすか」

遊ばれているのか、からかわれているのか、癪に障る物言いに恋次は言い返す。
だがそんな恋次の態度にも白哉は気にする事なく、ただふと先ほど恋次が入った戸口に視線をやるだけだ。
その仕草はまるでその場しのぎの言い訳を考えているようにも見えて恋次はますますもどかしい気持ちになる。

「理由が無ければならぬのか?」
「…いえ…そういう訳じゃねぇですけど、…」

散々待たされた回答も理解し難いもので。一体何なのだ。呼んだのは其方の方なのに何故。
別に言葉遊びをしたい訳も無いだろうに。

そういえば、いつかの散策に連れ出された時もそうだった。

理由無く自分を誘う事に、何の意味があるのだろう。
それとも、また唯の貴族の気まぐれなのだろうか。


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す、っと畳の上へついた白哉の指が、立てた膝が一歩分距離を詰める。
迫るでもなく距離を詰めたその動作に、恋次は思わず身を硬くして身構える。白哉は静かにその薄い唇を開いた。

「私が、疎ましいか」


その確信を突くような台詞に恋次は更に狼狽える。
白哉からそんな言葉を投げかけられるなど。何故今になってそんな言葉が出てくるのだ。
常日ごろこの男は自分の意思とは無関係に好き勝手してきたではないか。
無理やりに捻じ伏せて、抵抗などさせぬ程に支配して。
今更、だ。
それなのに何故そんな事を聞く。

なんて愚問。

「…いえ…」

肯定も否定もできず、ぼそぼそとした弱弱しい声音でそれだけ答えた。
例え本当にそう思っていたとしても、答えられる訳がない。それを一番白哉こそ理解しているだろうに。俯くばかりの恋次を、白哉は静かに見据えているだけだ。


「檜佐木が愛しいか」

次いでの問いに、恋次は思わず目を見開く。
何故そこでその人の名が出てくるのだ。
それとも、九番隊の副官に迷惑になる行為は自隊の恥だと自分を咎める為の口上か。それならば理解できるが。

愛しいのかと。
そんな問いを、白哉が口にするなど想像だにしていなかった。

「な…」

何故そんな事を聞く。
そう口を開いたが途中でやめた。質問を質問で返した所でこの人からはきっと満足できる答えなど得られないだろう。

「…解り、ません」


正直な所、本当に分からない。
いくら仲が良いからと言っても、いくら部屋に泊まる事があると言っても相手は男だ。そんな感情で見た覚えも、その気も無い。
何故白哉がそう問うのかという意味合いも込めて。


恋や愛という意味を身近な例で取り上げるならば、吉良が雛森に寄せる其が恋という感情で。淡く暖かい感情を自分に例えるならルキアを想う其れが愛に近いのでは無いのかと考える。
だが、白哉の問う其れは友愛や家族愛という類ではないだろう。

檜佐木に対しても、先輩としての尊敬の念や感謝の念はあるものの、それが恋や愛といった言葉では不適切ではないだろうか。
そもそもそんな感情は生きてゆくのに精一杯で、具体的にどのような感情が其れなのかを恋次自身まだハッキリと理解していないのが本音だ。
お互いに愛や恋など無くとも性行為は可能だし、その間に情なども存在しない。
白哉に対してもそれは例外ではない筈だ。


「恋次」

静かに名を呼ばれ、白哉が更に動いた。
ゆっくりとした物腰で、身を此方へと乗り出してくる。
もう片方の白い指が自分へと寄せられるのを、恋次は迷走する意識の片隅で抵抗する事なく黙って目で追った。
白哉の後方で燃える灯りが閉め切った部屋でゆらゆらと揺れている。
その長い指が作る影が自分へと重なり、冷たい指先が頬に触れてくる。

ゆっくりと輪郭をなぞられ、その指の感触に身震いした。

「恋次」

確かめるようにだけ動く指は、それから先の行動には移らない。ただ、肌を滑るだけの感触に、淡々とした言葉に、胸の奥が息苦しい感覚に陥ってしまいそうになる。
嫌か、嫌ではないのかと問われれば、女の様に整えられた滑らかな指先に触れられるのは嫌ではない。
だが、そんな表面上の話などでは無いだろう。

恋次は思う。

恋や愛とは淡く暖かいもので。
きっとこんな身を焼くような苦しい胸の痛みなどは決して、其れとは違うのだろう。
ふいに肌の上を滑り遊ぶだけだった指が意思を持って動いた。
そっと耳の後ろに回される。生え際から首筋に流れる刺青を撫ぜられ、そのままに引き寄せられるように力が加わる。


「…、俺は…」

ゆっくりと近づく白哉の顔と、その静かな瞳を見つめ、恋次は意を決して口を開いた。

白哉は漢らしく実力も地位も持ち、冷静に己を制する事のできる大人で。
なによりも美しい。
内面も、外面も。

同姓であっても嫌悪感すら抱かせぬほどに。自分が受けた扱いすら差し引いたとしても、白哉はまさに高潔という名が相応しい。
それは長い間白哉を見続けてきた恋次だからこそ認めざるおえない事実だった。


「俺は、隊長に憧れてます…、けど。」



だからこそ、こんな関係で良い筈が無いと思う。
本当は、もっと違う意味で近い存在になりたいのだ。
東仙と檜佐木のような信頼し合える関係になるにはまだ程遠いが、上司と部下として近い存在でありたい。
昔のように憧れ追いかけ続ける関係であってほしい。
その為には。


「こんな事をするのは、…違う気がするんです」


その言葉を淡々とした表情で聞いていた白哉の瞳が一瞬揺らいだが、恋次は気づかない。
止まっていた指が動き、そしてそのままゆっくりと離れてゆくのに、恋次はほっと息をついた。



「そうか」



ぽつりと呟き出された声は、やはり静かに低かった。





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