刺すような日差しの熱気に、立っているだけでもじとりと汗をかくような、そんな陽光の下、建物の向こうに懐かしい姿を見かけた。
気付いたのは此方だけで、後ろ姿のその背中は直ぐに消えてしまう。

ルキア

首筋を伝う汗を乱暴に拭って、再び少し距離の離れてしまったその人の背を足早に追いかけた。
姿はもう見えず、熱せられた地面が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れる様だけが外には広がっている。



俺はお前が幸せであればそれでいい。
そう、俺は自分自身に言い聞かせていたんだ。




[雛罌粟の群]






日差しが直接降り注ぐ屋外に、威勢の良い声が響いた。季節は夏の盛り。

「そこ!踏み込みが甘ぇ!」
「ハイ!」

立ち尽くすだけでも汗が滴り落ちるほどの熱気の中、隊舎の一角に広く設けられた訓練場で、まだ入りたての若い隊士が汗を流し鍛錬に励んでいた。まだ幼さの残る若人は、上司に向かいがむしゃらに腕を振り上げ挑んでゆく。
鳴り響く太刀の音も力不足、直後隙を取られ打ち込まれる強い一打。苦痛に歪む顔、緊迫した息遣い。
傷だらけになりながらも諦める事無く挑んでくる若い精気溢れる様子に、鍛錬の相手を引き受けていた恋次は昔通った自分の姿を重ね、満足のいく顔をして加減無く打ち返した。


「まっ…まいりました」

払われた木刀が空を切り、乾いた音を立てて地面へと落ちる。
喉元に木刀を突きつけられ尻餅をつき後ずさった小柄な隊員を残し、立っているのは恋次だけになるまではそう長い時間はかからなかった。
汗だくになって床に倒れる数人の隊士達の頭に自分の水筒の水をかけてやりながら、恋次は流れる汗を爽快な気持ちで拭い取る。
じりじりと肌を刺す陽光が心地良く、このまま上の着物も全部脱いでしまおうかと襟元に手をかけたが、一瞬止まった手は衣服を剥ぐ事はせず、結局喉元を手拭いで拭うだけにした。
部下に対し肌を晒す事など今まで意識無く行ってきた事だが、この頃躊躇えてしまっている。


「ありがとうございました!!」

元気よく良く頭を下げ、各々傷を癒しに四番隊に向かう者、汗を流しに水場へと駆ける者を見送り、誰もいなくなった訓練場に沈む夕日を何気なし見上げると、恋次はぞわりとした視線を感じ後ろを振り返った。


「隊…」

思わず出た名は最後まで口に出ることは無い。
訓練場に隣接する隊の施設の渡り廊下にその姿はあるものの、それは遥か後方。強く感じた視線も振り返った頃には反らされており、その影はすっと建物の中へと入ってゆく。

拭った筈の汗がまた頬を伝う。じりじりと刺す陽光に写し出された自分の影が足元に濃く伸びているのを、恋次は狼狽した顔で眺めた。


------------------------------

その夜、恋次は九番隊の執務室の前へと足を延ばしていた。

六番隊でもそうだが、執務室という場所は何処も奥まった廊下の先へと位置しているせいか、擦れ違う隊員も少なく、滅多に来る事も無い場所だ。
理由はもちろん、檜佐木との現世任務についての詳細を伺う為、事前に回ってきた書類を抱え大きな黒塗りの扉の前へと立つ。


普段なら扉を叩いて名を名乗った後、入室を許可する声が聞こえ扉を開くものだが、その声よりも先に開かれた扉の前には機嫌よく笑う檜佐木が立っていた。

「本当だ、隊長ピッタリじゃないですか」

扉を叩こうと手を上げかけたまま驚き固まった恋次を室内に引き寄せた檜佐木は、隊首の机に静かに座っている東仙に向かって話を投げる。
どうやら気配に敏感な東仙が足音を聞き取ったのか、檜佐木に命じて扉を開けさせたらしい。
盲目でありながらもまっすぐ自分へと向けられた温かい笑みに恋次は慌てて一礼した。

「んな畏まるなよ、別に話聞くだけだろ」
「阿散井君遅くにすまないね。修兵、七番隊に頂いた茶菓子があっただろう?出してきてくれるかな」

座ってくれと差し出された椅子に腰を下ろすと、檜佐木が乱雑に茶やら菓子やらを乱雑に置いてゆく。

「修兵」
「おう悪ぃ、今日はお客さんだったな」

諌めた東仙に檜佐木が笑い、つられて恋次も笑う。
始まった話も茶菓子を囲んでの談笑のようなもので。各隊によってこんなにも緊張感が違うものなのかと、副隊長になってから初めての大仕事に些か硬くなっていた恋次は内心ほっとしていた。

その内容は、2手に分かれて虚の巣くっているポイントを掃討するというもので、現世へと転送する場所や時間帯も技術開発局のサポートにより行い、敵の数が多いという点以外では、特に難しい任務というわけでもなさそうだ。

「それじゃぁ修兵、遅くなってすまないけど、この書類を提出してきてくれるかな。終わったらそのまま帰ってもかまわないから」

「はい。お先に失礼します。じゃぁな、恋次」

「阿散井君、ちょっと」

終わった会合にやれやれと書類を持ち立ち上がった恋次を、東仙が引き止めた。
檜佐木は挨拶もそこそこに先に出ていってしまうようだ。

閉じられた戸、2人だけの執務室。
もう一度座るよう東仙に促された恋次は嫌な予感にかられていた。


「修兵から聞いたかい?」
「俺の、移動の件…ですか」

険しい顔をした恋次に、そんなに深く考えなくても良いと一言置いた東仙だが、表情はいつになく真剣で。

「あまり知れ渡ってはいないんだが、…君と朽木隊長との間に良くない噂が広まっていてね」

その言葉に、内心やはり…と思った。
プライバシーの守られている白哉の自室から仮にも公共の場へと場所を移した事で、そういった類の噂はじきに広まると思っていた。いくら執務室の防音が良くとも、どこで何を聞かれ、何を見られているか分かったものではない。
規律や節操に厳しい白哉がそれを否とし、愚拙で低俗な己に構わなくなれば良い…そうどこかで期待していたのは事実だが、他隊の隊長が口を出してくるほど深刻な事になっているとは。
恋次は浅はかな行動を今更ながらに後悔した。


「中には君が朽木隊長に進言して副隊長になったのではないかと言う輩もいるんだ」
「俺はそんな事してねぇです!」

思わず声を荒げ叫んでしまった恋次は慌てて謝罪する。
東仙も、その言葉に嘘がないと分かっているのだろう。咎める事もせずに相手の気が落ち着くまで待ってくれるようだ。
そして、柔らかな口調で会話を続けた。

「ただの噂ならば良い。…けど、修兵が心配しているんだ。君が副隊長になってから、随分とやつれて夜も眠れないでいると」

改善されればそれにこした事は無いけれど、君一人じゃどうにもできない事もあるだろう。
何か無理強いをされているといった事は無いのかい?



相手が盲目だからだろうか。普段なら笑って誤魔化す事も出来ように。確信を突かれ、恋次は狼狽の表情を隠す事ができなかった。
檜佐木も最初からその話をさせるつもりで、恋次を残し先に出て行ってしまったのだ。あの夜助けを求めるように縋りついてきた後輩の身を案じて、無理を承知で東仙に助言を乞うたのだろうか…。


「私の隊が合わないようならば元いた十一番隊という選択もあるんだ。君自身の為にも…よく、考えておいてくれないか」


その言葉に、未だ書類を腕に抱えたままの恋次の肩がピクリと跳ねた。
そんな事急に言われても…そう言い訳じみた回避意見が頭を巡る。だが、檜佐木に話を持ちかけられてから、ある程度は覚悟していたのに。
もちろん、自分が六番隊の副隊長という地位にあるのも白哉が恋次を適任だと選んだこそなのだから、檜佐木にも東仙にも、当事者である恋次にさえも白哉の許可無しに他隊へ移る事など出来はしない。

それはそうなのだが、恋次にはどうしても拭えない疑問がある。
本当に、自分は実力で選ばれたのだろうか。
運よく大出世、世間からはそう映るかもしれないが。だが、始まってしまったあの関係も然り。
本当に、実力を買われての事なのかどうかも怪しいもの。


何度か寝所でそう口を開きかけた事はあったが、返答を受け入れる勇気が無く未だ聞けずにいる。


東仙の優しい言葉、甘い誘惑。
答えの出ない疑問が堂々巡りのように頭の中を駆け巡り、恋次は黙って頷く事しかできなかった。


------------------------------

どんよりとした空気が自分の周りを満たしている気がして歩くのが億劫になるのは、今の心からか。


恋次は今日一日の報告と、先ほどの九番隊でのやり取りを胸に、六番隊の執務室へと足を急がせた。

結局仕事よりも雑談の方が多くなり晩秋の冷たい空気が漂う時間。もう何処を通っても他の隊員の姿は無く、恋次の歩く足音だけが廊下に響いている。
東仙と檜佐木の楽しげなやり取りも、最後のあの言葉も何もかもが耳を離れず、恋次は複雑な思いを半ば走るように急ぐ事で紛らわした。
だがその足も執務室に灯る明かりに近づくにつれ徐々に遅いものへと変わってゆき、再び扉の前で立ち止まった恋次は両手に書類を抱えたまま扉へと手と伸ばす事を躊躇する。

自分の隊の執務室なのに、この部屋へ入る為には何故こんなにも心構えが必要なのか。
黒一色に塗られた光沢のあるその重厚な扉の向こうにはまだ執務を続けているあの人がいる。


「…っ…隊」

また自分が開くよりも先に開いた扉。
伸びてきた白い指にその手を捕らえられ、強い力で引きずりこまれた執務室。
壁に押し付けられて恋次は想う。あぁ。やはり…自分はこの人の情人でしかないのかと。
仕事最中の机の上、来客用の長椅子の上、はたまた壁際か最悪床で。
諦めてしまった体は易々と侵入する指を受け入れ、手に抱えていた書類は音を立て床へと散らばってゆく。
あとはもう閉ざされた扉の奥から切れ切れと僅かに聞こえる声とも物音ともつかぬものが、虚しく夜の闇へと溶けていくだけであった。


何故こうも違うのだろう。酷く扱われた体が鈍く痛みしばらく引きそうも無い。
すっかり月も傾いた頃、床に散らばった書類を一人狼狽した体で拾い上げながら恋次はふとまた九番隊での事を思い出す。

部屋に行く事を辞めた後も、場所が別へと移っただけで行われる事は変わらずに日常となったまま。求められれば拒めずにいる現状を、恋次は甘受する事しか出来ないでいる。

よく、考えておいてくれないか。そう優しく囁く東仙の声がまた頭をよぎった。
堂々巡りを繰り返していても、日々は変化してゆく。
檜佐木との現世への任務は、初雪の降り始める頃。
重い足取りで執務室を出た恋次は痛む身体をゆっくりと動かしながら、一目を避けて自室へと戻る。


闇を吹き抜ける風はもう秋を含み冷たく恋次の頬を撫ぜた。




01 / 02 / 唐綿の屍



【 戻る 】

Fペシア