分からない。
何も分からない。

ただ感じるのは不快感。






[ 菊の跡 ]








「恋次、まだ終わらぬのか」
「…すんません」

日が沈みかけた夕刻時、他の隊員達も切りが良い所で職務を終える時間帯。
今日一日の内で終わらせるべき仕事をやり終えたらしい白哉は、向かいの席に座り、忙しく筆を動かし続けている恋次に声をかけた。

その机の上にはまだ未処理の書類が山のように積まれ、到底すぐに帰れそうな量では無い。
席官から副隊長になった事で格段に増えた仕事量のせいもあり、最近ずっと残業が続いている状態で、それを白哉は気に入らないと言わんばかりに書類の山へと視線を向ける。

謝りうつむく恋次へと視線を戻すと、その薄い唇を開く。


「副隊長という責務はお前には重荷だったか」
「そんな事はありません!」

慌てて顔を上げた恋次に映るのは、やはり何も読み取れない白哉の顔。
目も、頬も、唇からも何の感情も出していない。
能面のように整い過ぎた、その顔。


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「…ならば早く終わらせろ」
「はい。」


ふいに伸ばされた指が恋次の頬を撫で上げ、うつむきかけていた顔を持ち上げる。
首筋に指が絡みつくような嫌な悪寒に、ビクリと肩が揺れた。

「日が変わる前に、私の部屋へ」
「…っ……はい」

副隊長になってからというもの、まるでこれも副官の責務だとでも言うかのように、日課となって続いているやり取り。
胃が重くなるような感覚も毎度の事で。
回数を重ねた分その重みもあまり感じなくなったのは、ヒト特有の適応能力でいう「慣れ」だ。


恋次の小さく答えた返答に満足したのか、すぐに手は離され、見下すような冷たい視線も外される。
銀白風花紗を翻し部屋を後にするその背中を見送る気にもなれず、恋次は視線をそらしたままで、ほどなくして音も無く戸が閉められる気配が耳に届く。

遠ざかるその人の霊圧に、深いため息を吐いた。


これが終わったら、隊首室へ。
あの人が満足するまで。
あの人の機嫌を損ねないように。





誰もいなくなった執務室で一人、恋次は書きかけの書類をぼんやりと眺めている。
急げば急ぐほど、この後すべき行為に近づくようで。
首筋に残った感触がまだ肌に残っていて。

あの視線からも、霊圧からも今は開放されているというのに、未だに自分の体は白哉のあの白い指に囚われたままのようで。




軽い筈の筆がやけに重く感じた。




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頭上に広がる真っ青な空は雲ひとつ見つからず、どこまでも澄んでいる。
冬にしては暖かい日差しに歩いていた足を止め窓枠に手をかけて、恋次はそれをぼんやりと見上げていた。


副隊長と言えど日々常に多忙な事は無く、提出する書類も先ほど無事に届け終わり、すべき予定は何も無く暇を持て余している所。

このまま六番隊舎に帰ろうか。
それとも鍛錬でもしに十一番隊に顔を出してみようか。
そんな事をぼんやりと考える。

時折肌をかすめる風は少し寒いものの、最近の雪続きに晴天の太陽光は心地良く、そのまま目を閉じて体の力を抜くように息を吐いた。

「お疲れみたいだね。」
「…まぁな」

後ろから不意に覚えのある声が耳に届く。
仕事中滅多に会う事の無い友に、恋次は顔をそちらへ向けた。

声の主は、吉良と檜佐木。
こちらも特に急ぐ用事は無く、偶然近くを通りかかったらしい。

「遅くなったけど、副隊長昇進おめでとう。」
「どうだ調子は。大分慣れたか?」

有望株と言われていた檜佐木はとうの昔に。
吉良も雛森と並び早い時期に三番隊副隊長となっており、五番隊から十一番隊、六番隊と移動を重ね、出遅れた恋次は昔の同期の祝福に苦笑いを返した。

席官に比べて多くなった仕事の量や隊長を補佐する事についてならば、日が経過するにつれ、経験するにつれて身についてゆくもので、狼狽するほどの事では無いのだ。
あの日から数日が経過した現在は、副隊長として仕事の流れも大方把握できるようになってきたし、残業の量だって徐々に減ってきてはいる。

「まぁ、ぼちぼち…つうか先輩や吉良はどうだったんだよ」
「僕は慣れるまでかなりかかったよ。隊長格って何か独特っていうか…。」
「独特って言うなら市丸隊長以上に独特なのは涅隊長くらいだろ」
「それ言うと先輩ん所はラクそうっすよね」
「ラクって訳じゃねぇけど、市丸隊長ほどじゃねぇかもな」
「はは…そうかも」

笑う吉良の目の下には、消えかかった隈がうっすらと残っているのが見てとれた。
三番隊隊長の放浪癖は有名なもので、その度に大量に溜まってゆく仕事のお陰で、学院時代と比べやつれた吉良の体は、今も相変わらず細いままだ。




01 / 02 / 一輪草



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