月に宿る


暑い季節もようやく蔭りを見せ始めてはいるものの、秋の気配を感じるにはまだ早いとある日。
恋次は己の上司の命によりその主の屋敷へと足を運んでいた。
時間帯はまだ明るい陽の陰りが残る日暮れ時。通された部屋の中で恋次は一人、今の状況を思うように把握できずに溜息を吐いた。

一体何なんだ…。

今居るこの部屋は白哉の自室というわけではないようだが、置かれている家具や調度品は素人から見てもどれも時代と値打ちを感じられるものばかりだし、部屋の外に見える枯山水や植えられている草木は一寸の乱れもなく手入れされ、涼やかで静かな空間を作りだしている。
下層の出である恋次にとって、貴族という立場のそのお人の屋敷に向かう事はそうある事では無い。 仕事上必要に迫られてという事はあれど、プライベートな理由となると、という意味でだ。
恋次自身、隊舎が主な衣食住の生活拠点であり、「職場=住居」という生活であるし、白哉も任務の関係や執務の忙しさから隊首室で寝泊りという事はそう珍しい事でも無い。
さすれば何かにつけ逢瀬の機会など作りたい放題というもので、仕事上も個人的にも近い場所にいて、気兼ねなども無い。

最近の仕事の傾向としても特に忙しいという程では無く、当然仕事終わりで屋敷に戻った白哉に再度執務に戻ってもらう程の用も急を要する書類も無い。
下心を含んだ個人的な理由でわざわざ白哉の屋敷で逢うという事は必要すら無かったのだ。



まだ夏の気配が残る日暮れ時の陽気に、じっとりと首筋に浮かぶ汗を意識した恋次はまた溜息を、それもとびきり深くて重苦しいものを吐いた。
1つや2つではない、恋次は一人長い時間をかけて今の状況を、こうなった要因を考えては辞め、また考えてはため息を吐いている。

情を通じ合っているお人に呼ばれるという意味で、恋次はそれなりに心構えもしてきたのだ。
そりゃぁもちろん屋敷で風呂など借りてしまった後には使用人よろしく周囲にモロバレてしまうと、伺う前に隊舎で湯を済ませてきたり。
遅く帰る時に人目に付かず使えそうな裏口も確認した。
貴族である白哉に対してそれなりの準備というか配慮も抜かり無いと思うのに。


今の状況は本当に一体何なのだ。


庭のよく見える縁側沿いの柱の1本に縛道で縛り付けられている恋次は、放置したまま出ていった主人を思い出しまた一つ溜息を吐いた。

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日が傾きは始めれば暗くなるのも早いもので、あれからはまだ一刻程しか経過してはいない筈なのに、外は鈴虫の声がどこからか聞こえてくる秋の宵に染められてしまった。
とっぷりと暮れる空を見上げ、長時間板の上に座らさせられ痺れを訴える腰を誤魔化すように足を組みなおす。
灯りとりに置かれた蝋燭が部屋を照らすのを、何もできずただぼんやりと遠目に眺めた恋次は、すらりと小さな音を立て廊下につづく襖障子が開かれる気配に恐る恐る顔を其方へと向け、音も無く入ってきた屋敷の主人を確認すると憎憎しげに顔を苦ませた。

ようやくのお帰りか。
呼びつけるだけ呼びつけておいて、自分をこんな柱に拘束したまま、いったいこの男は何をしていたのだ。
戸を閉める動作さえも優雅に見える忌々しいその上司は、出て行った時に身に着けていた死覇装ではなく、白い絽の長着に濃い色の羽織を肩にかけただけの夜着姿だ。大方湯でも浴びてきたのだろう。牽星箝さえも外したその姿は普段の硬い雰囲気とは少し違って見える。
一瞬目を合わせたにも関わらず、次の瞬間には何事もなかったかのように用意されていた座布団の上へと腰を下ろした白哉は、柱の情人などてんで無関心だ。


「何のつもりですか」

未だその両腕は後ろ手で括りつけられたまま拘束されているというのに、無視を装う主にしびれを切らした恋次が低い声で問うた。
もちろん恋次だってただ大人しく白哉が戻るのを待ちわびていたわけではなく、必死に術を解こうともがいてみたりもしたのだ。だが実力の差は歴然としており、結局の所、今一番手っ取り早く開放される手段としては、やっと戻ってきた張本人に解かせる他無いのだ。

「隊長!」

もう一度呼ぶその声にもやはり反応は無い。
主人が戻ってきたのに礼儀もとらず不機嫌さを隠さない恋次の態度を見ても、当の白哉は何も云わず卓上の上へ用意してあった書を開くだけ。
一体どういうつもりだ。
そう捲し立てようとしたのだが、次いで扉の外から感じる人の気配に、再び叫ぼうと開いた口を恋次は慌てて閉じた。

「失礼いたします」

入室を許可され戸を開けたのは若い女中であった。
晩酌でもするのだろうか。酒と肴を載せたお膳が運ばれ、白哉の脇へと並べられる。
その杯の数は2つ。
明らかに恋次も頭数に入れられているという事実に恋次は羞恥から顔に血が上るのを意識した。
今だけではない。
この部屋に通されて一人にされた間に、灯りを灯しに来たり隣の座敷へ客人用の寝具を整えに来たりと夕暮れ時は何かと使用人の出入りが多いのだ。
皆物腰は柔らかく、流石貴族の屋敷だと関心する程の働きぶりをする者ばかりなのは以前急務の際に何度か屋敷に訪れた時に知っている。
だからこそ、屋敷の主人が客人である部下を柱に縛るという不可思議な事態にも動じないのだろうか。
だが戸が開き、入ってきた使用人と目が合った時の恋次の気まずさといったら、単に恥かしいというレベルではなかった。

日がまだ明るかった頃には庭の向こうに延びる渡り廊下からも見えていた自分の姿を、結局何人の使用人に見られただろう…。



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すらりと閉じられた戸に、退室した女中が遠ざかる気配に恋次は内心ほっとした。
先ほどまでの怒りは、先ほどの羞恥に塗り替えられすっかりと治まっているようだ。

…何だってんだ一体。

もう一度つとめて冷静に考える。これは何かの罰だろうか。
相変わらず無関心な白哉に落胆の気持ちばかりが大きくなってくるのはいた仕方ない。
待っている間もいろいろと考えてみたのだが、さっぱり分からないのだ。

罰ならば、自分の何が白哉の機嫌を損ねてしまったのか簡単に出てきそうなのに、今は不思議なほど思い当たるものが無い。
仕事で大きなミスでもしてしまったのか。
だが小さなトラブルはあるものの、仕事上での大きな不備は無く平和そのものだ。それにもしあったとしたならば白哉にその場でお叱りを受けている。プライベートに仕事を持ち込む男では無い筈だ。

それならば仲間との飲み会や宴会での粗相か。
それも考えたが最近は此れといった派手な誘いも無く白哉と過ごす時間の方が多かったりする。
自分基準だが恋愛関係も良好…だと思う。

ならば何か。
あまり考えたくなかったが、実は白哉にそういった趣味があると考えない限りは、理由が思い当たらないのだ。
それはそれで嫌だと、達した結論に恋次は小さく溜息をついた。




ふいに悶々と迷走に耽っていた恋次が顔を上げると、白哉がいつの間にか此方を眺めている事に気がついた。
いつからだろう…、在ろう事か滅多にお目にかかれない極上の微笑まで称えている。

「何が可笑しいんすか!」

普段ならそれだけで大抵の者は簡単に堕ちるだろう。恋次も例外では無いが、今の瞬間は逆効果だ。知っいてやっているのだろうから性質が悪い。

「隊長!」

「…、そのような初歩の縛道も破れぬようでよく副官が務まるものだ」
「それはっ…。」

そう言われるとぐうの音も出ず、恋次は言葉に詰まった。
だが歴代当主最強の名を持つ白哉がわざわざ詠唱破棄などせずに一音一音きちんと音を踏んで仕掛けた縛道は、そこら隊士のものとはレベルも何もかもが違い過ぎるのだという事を恋次は心の中で訴えた。

反論できずに俯いてしまった恋次を見て白哉は一層笑みを濃くする。
その恥じらう姿が可愛らしいのだと感じている事に、当の本人は気がついていないのだ。


「反論する口があるならばその程度の縛道、自ら解いてみせよ」

立ち上がった白哉は肩に掛けていた羽織を畳の上へと落とした。足元に溜まる羽織をそのままにゆっくりと恋次の方へ歩み寄る。
蝋燭だけの薄暗い室内から月明かりの差し込む縁側へ。
歩く姿だけでも絵になる程の艶に恋次は内心舌打ちをし、月明かりを受けて身に付けている白い着物が薄らと違う糸で織られている模様の入った物なのだと知った。





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