白いトラウマ


八寒から運び入れた特別な氷を溶かし入れた水に頭の先まで浸かっていた鬼灯は、呼吸の為に体を起こした。
長時間浸かっていたその体は冷えきり血管が透けて見える程に白くなっていたが、半身は未だ水の中にある。
揺れる水面は地獄の薄暗い空を写してはかき消してを繰り返しあちらこちらに波紋を描きながらゆらゆらと揺れていて、暗い空を写す水面はさながら水鏡のようだ。
そこに反射して写りこむ自分の姿を睨み付けても、鏡像が消える事は無い。頬を流れ落ちる水滴を拭う事もせずに小さく舌打ちをした鬼灯は、これ以上視界に入れないようにもう一度冷水の中へと顔を浸した。水の中で目を開ければ暗い闇が視界に広がるばかり。


「鬼灯様、そろそろお時間です。お支度くださいませ」

後方から聞こえてくる呼び声に再び顔を上げて振り返れば、着替えを手伝う者が用意された部屋の隅に控えていた。
鬼とは違うその姿はさしずめ神の御使いといった所だろうか。にこやかに鬼灯が水から上がるのを待っているが、声を掛けて来る程には時間が迫っているらしい。

さあ此方へ、と待ちかまえているその手には鬼灯が身につける為に特別に仕立てられた装束がある。
上等の絹で織られたその装束はもちろんの事、靴や中啓と呼ばれる扇までもが全て真白色に統一されており、部屋の灯りを受けてほんのりと輝いて見えた。
これから清めた肌にそれらを纏い、神々への政(まつりごと)が始まる。…始まってしまう。




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日本の神事に、御弓神事と呼ばれるものがある。
年の始め、主に小正月の日に神前にて矢を射る事によって魔を払い、今年一年の豊凶を占うのだ。
頭の先から足の先まで白の清衣を纏った射手は古い名で”おだいどう”と呼ばれ、高位の神官がそれを務める事が多い。

閻魔殿近く、縦長に広く取られた催場には多くの神々や妖怪、鬼達で賑わいを見せていた。
皆が見つめる先には小さな的が一つ。射的にしてはいささか小降りな大きさの板に描かれた黒と白の丸い文様は、さながら目玉の様にも見える。
その的の対極にあたる位置、距離を取ったその先には小さな矢倉が建てられており、その場が弓を射る為の場所なのだという事が窺えた。
簡素な板張りのその舞台の上には射手の姿は未だ無く、白い布が巻かれ清められた七勺三寸(約220センチ)の和弓と矢が上がり口近くに奉られていた。

「やあ、ずいぶん集まってるね」
「白澤君、君も来てくれたのかい?」
「僕はただの付き添いだよ」

背後から声をかけられた閻魔は聞き覚えのあるその声に振り返った。
見れば、いつもの唐服に白衣といった薬売りの格好ではなく自国の正装である漢服姿の白澤が、人の良さそうな笑みを浮かべながら近づいていた。布地を多く使っている筈の衣装なのに軽やかな印象を持つその装いは、大きな袖の薄布と髪飾りに挿している桃の花が動作に合わせてふわりふわりと揺れて実に華やかだ。
最近お友達になった女の子に誘われたのだという白澤は、閻魔に話を向けながらも少し後からついてくる彼女の方を振り返った。
微笑みながら会釈する彼女は、淡い若草色の衣に白い紗がよく似合っている小柄で可愛らしい天女のようだ。

「日本の神事に中国籍の僕は部外者なんだけどね」
「いいんだよ、こういうのは皆でお祝いしてもらうものなんだから」

今日は神々の御前にて行う御弓神事の日。
白澤の他にもアマテラスを筆頭に地獄や天国を問わず、現世など普段ならばこんな地獄ではお目にかかれない神々までもが多く集い、さながら極楽のような光景だ。地獄では珍しいその集まりを一目見ようと集まった妖怪や鬼達までもが、今か今かとその始まりを待ちわびている。

「そういえば去年までは大王がおだいどうを勤めていたのに、今年は違うんでしょ?」
「うん、儂は儂でやることがあるし。それに弓ってちょっと苦手だったからね」

普段裁判を行う時に着ている赤と緑を基調とした衣とは違い、今日の閻魔大王の装いは黒袍の束帯だ。
黒く染めた絹地に黒糸で輪無唐草の刺繍が施してあるその衣姿に笏(しゃく)を持つ様は神官の最高位に当たる衣装とされている。

「今年はなんと!鬼灯君がやってくれる事になったんだよ〜」

楽しげに話す閻魔に白澤は苦笑いを返すだけだ。
元々は純白の衣を纏い、神々の前で矢を射るのはこれまでは大王の役目だった。
本人は苦手だと言っていたが、その大きな体格から放たれる矢は迫力あるものだったと白澤は過去何度か目にした光景を思い出す。まぁ…、的に当たる確率は高いものでは無かったが。
そして今年は白澤が知っている限りでは閻魔大王以外で初めて違う者が射手を務めるのだという。それが、よりにもよって大嫌いなあの二代目補佐官であると聞いたのはつい先ほどの事だ。
黒猫と切れた草履の一件や和漢親善試合、その他もろもろの因縁以来、顔を合わせれば攻撃を仕掛けられる関係となった白澤にとっては至極どうでもよい話題である。
全く関心が無かった白澤は論外として、事前にそれを知る者は多かったらしく、彼の初舞台を是非見ようという目的で参じた者も少なくないようで、それもこの賑わいの原因の一つと云えた。

「ほら、若い子にさせた方が映えるでしょ?」
「あんな歩く凶器みたいな鬼に武器を与えたら、魔を払うどころじゃなくなると思いますけどね」
「あはは、きっと鬼灯君ならしっかり務め上げてくれると思うよ」

おおらかに笑うその顔は、まるで子供の初舞台を見る親のように嬉しそうだ。
飛び道具であればボールであろうとも人にぶつけるという概念のある闇鬼神が弓装備でこちらに気づいたとしたら、手がすべっちゃいました、というおちゃめな言い訳ひとつで射られかねないだろう。
しかも今度の武器は簡易的な玩具ではなく千年竹と呼ばれる節の強い竹を使って造られた一級品。
茜色になるまで火を入れられた曲線は幽玄の如く美しく、ピンと張った弦はその強度に耐えれる程しっかりと結われている。見た目の美しさだけでなく実践でも充分通用するように作られた其れは、なまじ力の弱い者では引く事すら困難なものだ。
あんなもので自分を狙われでもしたら…、いくら不死といえど笑って流せるレベルでは無い。


「そろそろ時間なんだけど、どうしたのかなぁ」

開始の刻限が迫っていたが、未だに矢倉に射手が現れる様子は無かった。
徐々にざわめきが大きくなる会場の様子を見ながら閻魔大王は姿を見せない部下の様子を気にかけ、豊かな髭を撫でつつ首を傾げた時だった。

(…か…ま…)

「え?」

不意に何かの声が聞こえた気がして白澤は閻魔とは逆方向を振り返った。だが背後には誰の姿も無く、ぽっかりと空いた空間が在るだけだ。

(…かみさま…)

もう一度、今度は小さいがハッキリと聞き取れるほどの声量で白澤の耳に響く。
まるで自分を呼ぶかのようなその声にきょろきょろと周囲を見渡すが、やはりそんな素振りをしている者の姿は見えない事に、白澤は首を傾げた。

「ねえ、何か聞こえない?」
「え?何も聞こえないよ?」
「ほら今も、神様って誰か呼んでる…」
「うーん、儂には聞こえないなぁ」

閻魔大王や連れの天女に問うてみるが、両者とも首を横に振るばかりだ。
神様と呼ぶなら今この会場に神と名の付く者はいくらでも居るだろう。周囲の他の神々でさえ、その声が聞こえている様子が見受けられないという事は、この声は自分だけに届いているという事なのだろうか。

(神様、神様、神様、かみさま、かみさま)

まるで助けを求めるかのようなその声は次第に白澤の耳の奥でハッキリと、より大きく響きだす。
若干高めでしたったらずなその声は女性というよりは年幅もいかぬ子供のようでもあり、聞き覚えがあるような無いような…。だがこんなに呼びかけられる程親しい幼子の知り合いなどいる訳も無い。
一体何処から聞こえてくるのだろうかと探ろうとしても周りの雑音が邪魔になって特定するには至らず、近くなのか遠くなのかすらも分からない状況に白澤は頭を捻るばかりだ。
そんな時、人混みをかき分けながら急いで此方へと走り寄る人影があった。

「閻魔大王!」

だが呼び人が探していたのは白澤では無く、隣に立つ閻魔大王の方らしい。
慌てながら駆け寄る姿は神事を取り仕切る神官の一人だろうか。

「大王、鬼灯様が…」
「どうしたの?」
「部屋に御篭りになられまして…」
「ええっ、気分でも悪くなったのかい?」
「分かりません。一人で着替えたいからと仰られたので席を外したのですが、刻限を過ぎても出てこられる様子も無く、お声をおかけしたのですが扉が開かず…」
「うーん、別に調子が悪そうな感じは無かったけどなぁ」

じきに神事が始まってしまうというのに、肝心の主役がボイコットしたなど皆に広まれば大騒ぎだ。周囲に悟られぬようひそひそと話す二人のやりとりを隣で眺めていた白澤は、ようやっと自分を呼びつつけるその声の人物に思い当たったのだった。

「ごめんね、ちょっと此処で待っててくれる?」

連れの天女へ詫びを入れると、白澤は呼び止める彼女の言葉も聞かずに地面を蹴って獣神姿となると、ふわりと浮き上がって空へと駆け出した。

(かみさま、かみさま…)

耳には子供の声が未だ煩く響いて止む事は無く、風を切るその音すら遮ってしまいそうな程。
必死になって自分を呼んでいる小さな子供の声に聞き覚えは無い。だが、すとんと何かが落ちるように理解してしまったのだ。理由など無い一種の勘のようなものだったが、一度確信してしまったその相手を勘違いだとは思えなかった。

(かみさま)

そんな名で呼びかけられた事など一度たりとて無い。弱々しい姿など普段の態度からはかけ離れ過ぎて想像も出来ない。
子供の声で呼ばれても、声変わりを経て低くなったバリトンしか知らない自分に気づいてくれというのが無理な話だ。

「こんな時くらい名前で呼べ、クソガキ」

苛立つように吐き捨てると、白澤はその声の方向へと急ぐようにもう一度空を蹴った。



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鬼となったその時から白い衣装が苦手だった。
理由など無い。たかが服の色ひとつ、何て事ないだろうと頭では思っていても、袖を通せばどうしても心が落ち着かないのだ。
地獄の色は黒であったし、ただ単に好みの色では無いというのもあるのかもしれないが、それでも何百、何千と生きれば慣れも態勢もついてくる。
年若な頃は仮装と称して友人達と共に亡者の格好で騒いでみた事もあったし、宿に泊まった時に貸し出された着替えが旅館名の入った白い浴衣だった事もあった。
それらの時は別段どうも感じなかったし、ただの衣装だと思えば何も思う事など無いのだが、何処となく引っかかるような感覚はあった。

そして鬼神となり閻魔大王の補佐官となり幾年月。
現世は戦国、戦ばかりの時代へと突入している。徐々に国も統治され人も増え。それと同時に亡者の数も一気に増えつつあった。…そんな時の事だ。

「今年の“おだいどう”をね、是非鬼灯君にしてもらおうと思って」
「は?この忙しい時期に何を言っているんですか」
「この前十王の皆と話した時にね、是非って事になってね」
「嫌です、御断りします」
「ええ〜実は、もう鬼灯君がやるって発表しちゃったんだよ…、ね、お願いだよ。当日は弓を射るだけでいいから。的に当たっても当たらなくても大丈夫だからさ〜。君なら弓の腕も良いし、皆の推薦なんだよ。ね、頼むよ鬼灯君!」
「………」

それを閻魔から聞かされた時にはもう断れない段階であった事がそもそもの始まりだったのだ。
恐らくは閻魔大王の第一補佐官としてよりいっそう期待されての事だろう。神事と云っても形式だ。今までも大王のへっぽこぶりを近くで見ていたのだから、ひと通りの流れくらいは知っている。別に弓を射るだけなら構わない。
だが、鬼灯の頭に真っ先に浮かんだのは弓を射る事では無く、当日着なければならない白装束の事だった。

政(まつりごと)として年の初めに一年の安泰を願い行うその射手は、いわば神々の代行である。清めた体に真っ白な装束を纏う事で、人がより神へとその身を近づけようとする古くからの現世の習わし。
鬼となりて数千年、数は少ないが白を着た事は何度もある。今や鬼神となり補佐官となったのだ。恐れるものなど何も無い。たかが色だ。白は畏怖するものでは無くなった筈、構える事など無いではないか。

鬼灯は、溜息を吐きつつ渋々ながらも首を縦に振ったのだった。

「やった!ありがとうね鬼灯君!」
「その代わり、当日までに三割増しで働いていただきますよ大王」
「えええ〜っ!」
「正月明けで忙しいんです!サボらないでちゃっちゃと働きなさい!!」

泣き言を言う上司の頬に金棒をぐりぐりと押しつけた時の事を思い出す。あの時、もっと危機感を持っていれば…何か回避できる策を考えていれば良かったのかもしれない。

「それでは、鬼灯様。私達は廊下で待機しておりますので、御仕度が出来ましたら御呼び下さい」

使いを全て退出させ一人残った部屋の中で、鬼灯は用意された白装束を手に取った。
指先に触れるとさらりと流れるように滑らかなその布地は一見して白一色だが、生地と同じ絹糸で細かな刺繍が布全体に施されており、光に反射してその文様が浮き出て見える豪華なものだ。以前行った和漢親善試合の時に着た審判衣装によく似た形状のようだが、袖幅の長い上衣に床すれすれまで丈のある奴袴など、細かなところが違っており、武道をする為の動きやすい衣装とはお世辞にも言えない。
武道といっても弓事。止まっている的に向かって矢を射るだけならば、こんなにヒラヒラとした余計な布があっても問題は無いのだろう。普段愛用している鬼灯紋をあしらった黒の着物は、先ほど沐浴をした時に何処かへ持っていかれてしまったようで、木造の簡素な部屋には自分とこの衣装しかない。

(何を迷う事がある)

たかが服の色、恐れる事は何も無い。
鬼灯は無言のまま、白い装束に腕を通した。

上衣の紐を結び双袴に足を通し、腰の低い位置で帯を結ぶ。
何度か着た事のある束帯のややこしさに戸惑う事は無く、手伝いが無くともそう時間は掛からないだろう。
残る一番上に着る袍(ほう)に手を伸ばしかけたその時。ふいに視界の端に映ったそれを、鬼灯は思わず見てしまった。

そこには、大きな姿見の鏡が一つ。
その中に映る白装束の姿は、まるでー…。




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「お前様、丁の支度が終わりましたよ」

老婆が男衆を呼ぶ為に外へと出ていき閉じられた扉。薄暗い小屋の中で、一人残された子供が座っていた。

幾日かぶりに洗われた髪は丁寧に櫛を通されて榊の枝と共に頭上にまとめ結われている。貴重な水を使わせてもらって綺麗になった自分の肌を見るのも久しぶりだ。
前に置かれた銅鏡を見る。そこには白い装束を着た子供。髪をまとめる為の布地も上衣も袴すらも真白色。鏡の中の顔は間違いなく自分の顔なのに、他人のような気がして子供はそれきり目を反らした。

衣装の袖に触れてみる。
一度も人に着られた事の無い新しい布地は堅くゴワゴワとしており大層触り心地が悪い。
大きな袖も装飾として縫いつけられている紐も、畑を耕したり水を汲んだりといった仕事では邪魔になって仕方ないだろうし、瑠璃を削って作られた勾玉の首飾りは小さな子供の首には少々重かった。

先程まで自分が着ていた衣服は側に置いてある籠の中に畳まれて入っている。
随分前に下げ与えられたその服は何度も繕って着たせいか元の色ももう分からないほど土気色に染まってしまった。所々ほつれたり破れたりしているが、ずっと大事にしてきたものだ。愛着があるという事では無く、それしか衣服が無かったからだ。

手を伸ばして触れようとして、それは直前で止まる。
先ほどの老婆から、もう不浄のものには触れてはならぬときつく命じられたからだ。
今の装束がどれほど高価ですばらしいものだと言われようが、籠の中の着慣れた衣服の方が数倍も着心地が良いだろうと子供は思う。
そして、もう二度と着ることは叶わないとも知っていた。
この服も、きっと捨てられてしまうのだろう。

白は死装束。
別に恨みなど無い。こんな時代だ、仕方の無い事だ。
大した役に立たない厄介物の小さな命一つで済むのならば。この命を対価に雨が降るのならば。
そう願って、子供は手を合わせ天を仰ぐ。


(なのに、どうして?)


子供は泣いた。
絶望が暗闇となって体を包み込み、身動きが取れない。
喉からは細くなってゆく吐息が時折いびつな音となって吐き出される。乾ききった体から涙は出なかったが、それでも子供は泣いた。



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会場から少し離れた場所にある敷地にふわりと降り立った白澤は、人型に戻るとその周辺を見渡した。
上から見た時には中庭のように見えたそこは、沐浴をする為の場所らしく、黒曜石を削り出して造られた浴槽にはたっぷりと水が張られており、今しがた誰かが使っていたような形跡がある。
足跡のような水滴の跡がまっすぐに隣の建物へと続いているのを目で追いかければ、戸口に立てかけてあるのは見覚えのある金棒だ。
やはり間違い無い。この中に目的の人物がいるのだと確信した白澤は迷いなくその木造の扉を開いた。

中はやけに暗かった。
いくら地獄が薄暗いとはいえまだ午前中、室内も灯りくらいある筈なのにまるでこの部屋の中だけが夜になったかのような感覚を覚える。開いたばかりの扉から外の光が室内に入っているのに、数歩先も見通せない程の闇が目の前に広がっていた。

「おい、闇鬼神!そこにいるのか?!」

呼びかけるが返答は無い。
子供の声は相変わらず耳の奥に響いて来るが、肝心の鬼の低い声はおろか先制攻撃すらも返ってはこなかった。
恐る恐る中へと踏み出せば直ぐに自分の足元すら見えなくなり、今立って歩いているのが果たしてこの部屋の床なのかも解らなくなりそうになる。
何か支えになるものは無いのかと手を彷徨わせても触れるものは何も無い。上から建物を見た限りではそこまで大きな部屋では無い筈なのに、一体これはどういう事なのだろうか。
必死に目を凝らせば、暗闇にぽつんと浮かぶ明かりがあった。まるで蝋燭に灯った炎のような光は浮かんでは消えを繰り返し、今にも無くなってしまいそうな程弱々しい印象を受ける。
導かれるようにしてその方向へと向かえば、ぼんやりと淡く浮かび上がる視界の向こうで子供が泣いていた。

「……」

僅かな光に包まれて浮かび上がって見えるその子供の体はぼんやりと透けていて、まるで亡者か何かのように見えた。
頭上でまとめられた髪には榊の枝。首には翡翠の勾玉。身につけているのは逆さ合わせの白装束。それは最近はあまり見かける事が少なくなった生け贄の子供だ。

目元を覆い隠す小さな両手の隙間からは大粒の滴が滴り落ちて、白い衣装を濡らしているのが見える。
更に数歩進めば、パキリと何かを踏んだような音がした。足下を見れば僅かな光に反射して見えるのは鏡の欠片か何かだろうか。

そろりそろりと近づいて、ようやく手を伸ばせる距離にまで来た白澤はぎょっと息を飲んだ。
椅子のような何かに座っているように見えていた子供の下には、人の手が転がっていたからだ。
右手と思われるその手の甲には何かを殴ったような傷が付いており、ぴくりとも動かない。
腕の方へ視線を移せば、背中を丸めうずくまるようにして床に倒れている人…いや、これは鬼の体か。
顔や表情まではよく解らないが、背格好と一本角は見間違える筈も無い。いつもの黒い着物では無く白装束だった事以外は、顔を合わせれば攻撃ばかりしてくる憎らしい地獄の第一補佐官だ。
床に倒れるその鬼の体の上に座るようにして、生け贄の子供が泣いていた。

「おい、朴念仁。何だよコレ」

とりあえず足下の鬼に呼びかける。もちろん動かない体から返答は無い。
確かこの鬼はこれから行われる神事の為の身支度をしていた筈だ。直前までは神官が付き添っていただろうし、異変が起きてからそう時間も経っていない筈なのに一体何があったというのか。
手がかりを求めて気配を探ろうとしても暗闇が邪魔をしてうまく解らない。呪詛か何かの可能性も考えたがそういった形跡は今の所は無いようだが…。

「鬼灯君!!どうしたの!?鬼灯君!!」

閻魔大王が呼ぶ声と、戸を叩く音が遠く部屋の外から聞こえてくる。
これ以上引き延ばせば扉を壊して無理にでも入ってくるかもしれないし、この状況でこの場が乱れるのは非常にマズかった。この子供が白澤を呼んでいた事は間違い無く、その下で倒れている鬼には意識が無い。
つまりは、この場は全て白澤に任されてしまったということだ。
とんでも無いものに呼ばれたものだと白澤は少々げんなりした。

じっと子供を見る。
泣きながら俯くその顔を見る事は叶わないが、その子供が何者なのかはもう知っていた。
何故鬼の魂がこんな子供の姿で現れているのかは解らないが、おそらくは何かのキッカケで魂が鬼の体から出掛かってしまったのだろう。早い所戻してやらなければ手遅れになる可能性だってある。
まずは原因を探り、解決策を練らなければ…。

全く、こんな面倒事は苦手だというのに…。知識はあれどまともな術など使えない白澤に一体が出来るというのだろう。これが可愛い女の子なら喜んで助けてやるとうのに、何でよりにもよってこの憎らしい闇鬼神を助けてやらなければならないのか。
仲が良い訳では無い。親しい訳でも無い。それなのに何故…。

「オイ、何で僕を呼んだんだよ」

相変わらず返答は無い。
白澤はため息を一つ吐き出して、仕方なくしゃがみ込んだ。

「ねぇ、君」

目線の高さを合わせて、出来るだけ優しく子供に声をかける。
声が届いたのか、ビクリと肩を跳ねさせた子供はようやっと白澤に気づいて顔を上げたのだ。
整った輪郭に少しだけつり上がった大きな黒い瞳と小さな唇。艶やかでまっすぐな黒髪。額に角は無く少しだけ長めの前髪は真ん中から左右に分けられている。
まるで幼女と見まごうばかりに可愛らしい顔立ちをしていると思うのに、これがどうして将来あんな仏頂面の凶悪な鬼神になってしまったのだろう。本当に惜しい事だと白澤は場違いな事を考えて少しだけ笑った。

「どうして、こんな所で泣いているんだい?」
「……」
「僕が分かる?」
「……」

子供は答えない。首も降らないまま困惑を顔に貼りつかせるだけだ。
やはりこの子供には鬼神の記憶は無いらしい。普段の白澤を敵と見なしている鬼灯とは別の意識と判断した白澤はもう一度最初の問いを繰り返した。

「僕は白澤、神様だよ」
「……かみ、さま…?」
「うん、神様」

真っ赤に腫れたその瞳から溢れ落ちそうになっている涙の粒を袖で拭ってやる。

「僕を呼んだのは君だね?」
「……本当に、神様なのですか…?」

そうだよと頷くと、子供はまた目尻に溢れんばかりの涙を溜めて、おずおずと手を伸ばした。
小さな指が遠慮がちに袖を掴んで、そして弱く引き寄せる。

「雨を…、雨を降らせて下さい」
「…雨…?」
「私の村には、もうずっと長い間雨が降っておりません。どうか神様、貴方様の御力で村をお救い下さい」

ああ、雨乞いの生け贄か…。白澤は何も応えず表情だけを曇らせた。
何百、何千年前の出来事だろう。選ばれたのか名乗り上げたのかは知らないが…この子供は水神に奉げられたのだ。
命と引き替えに雨を振らせて欲しいと懇願する為に、迎えにくるだろう神をずっと待ちわびて。
…だが望みは果たされなかった。
水神も来る事無く雨も降らず命を落とした子供はそのまま鬼火を引き寄せ鬼となったのだろう。

「ごめん…僕には雨を降らせる力は無いんだよ」
「ならばお知り合いに雨を降らせるお力を持った神様はいらっしゃいませんか」
「ごめんね。僕は違う国の神様だから…」
「……そう、…ですか」

嘘はついていない。仮に龍神に頼んだ所でこの子の村など、もうとっくの昔に無くなっているだろう。

「君、お父さんやお母さんは?」
「親はおりません…私は、村に雨を降らせていたく為に生け贄となりました。神様にお願い申し上げる事が私の務めなのです」
「そっか、…そうだったんだね」

だからこんな暗闇で泣いているのか。
心のより所も、頼る者も何も無い子供は呼んでも呼んでも来なかった神様を待ち続けていたのだろう。
絶望したその記憶を奥底に閉じ込めたまま鬼神となった今でもずっと。

白澤はそっと子供の手を取った。
その手は大人の手には余る程小さいものだ。指先が痛々しく荒れているのは労働の証。
余っていた手で頬を包み込んで、体を近づければビクリと身構える体。指先まで強ばる様子に、出来るだけ怖がらせないようゆっくりと、角の無い額に唇を落とした。
口に触れるその肌の感触は少しだけ冷たく滑らかだ。

「何をされたのですか」
「ん?何も?」

こそばゆいのか、それとも違和感が残るのか。子供は額を隠して白澤を睨む。
これが憎らしい鬼だとかはもう関係無かった。ただ慈しみたい。一人でずっと抱え込んでいた子供に優しくしてやりたい。愛を教えてやりたい。

「可愛いなって思ってね」
「…馬鹿にしないで下さい」

恥ずかしいというよりかは困惑の方が強いらしく、への字に曲がった眉のまま首を傾げるその仕草が妙に愛らしく思える。ああ、さっき抱きしめてしまえば良かった。

きっとこのままこの子供をもう一度鬼灯の中に戻す事は出来るのかもしれない。
適当に話をして言いくるめれば、素直なこの子は聞き入れるだろう。
…そうして暗闇の中で独りきり、来ない迎えをずっと待ちながら泣くのだろう。

「ねぇ…」

白澤は、そっと子供の手を取った。
柔らかな肌に己の指を絡めて繋ぎ合う。

「僕じゃダメかな。雨を降らせる事は出来ないけれど、僕みたいな神様でよければ君を迎えよう」
「……」
「もちろん今すぐじゃなくていい。お前には大事なものが沢山あるし、守りたいものやこれからやらなきゃいけない事が山詰だ。それらが全部終わってからでもいいよ」
「……」
「それまで出来るだけ君の力になる事を約束しよう。こう見えて、僕は薬学には結構詳しいんだよ?」
「……」

きょとんと首を傾げるその仕草は、考え事をする時によく見る仕草だ。
鬼神の記憶が無い子供にいきなりそんな事を言っても分からないかもしれない。雨を降らせる事の出来ない神など要らないと答えるかもしれないが、それでも良い。
ずっと長い事待っていたんだ。誰かがこの子を迎えに来なければならない。その役目を自分が引き受けても良いと、白澤は思う。

「どう、かな?」
「……」



それからどれくらいだろうか。ずっと考えるように沈黙を続けていた子供が、口を開いた。

「…私…口が悪いですよ」
「うん」
「手も出ますし、乱暴ですよ」
「うん」
「…貴方の好きな女性ではありませんよ」
「知ってるよ、残念だけどね」

お前が究極に天邪鬼で愛情表現が下手糞な事も、誰よりも頑張り屋な所も、全部知ってる。

「オマエとは何かと縁があるみたいだ」
「あまり嬉しくないです」
「心外だな、きっとこれから楽しいよ?」
「どうでしょうか」

お前が僕を呼んで、僕が応えた時からきっともう決まっていたんだろう。
目の前にいるのはもう小さな子供の姿では無くなっていた。
つり上がった目に長い睫、美しく整った顔立ちに艶やかな髪がかかり、額には一本角。
言葉使いもしっかりとした、低い声。

「白澤さん」
「うん」
「本当に…良いのですか…?」
「…うん」

ふわり、ふわりと浮かぶ光がゆっくりと白澤と鬼灯の周りを旋回していた。
恨みの根源が寄り集まった姿だというのに、赤く燃えるその色は美しく、ひとつふたつみっつと鬼に寄り添い離れる様子はない。
これら全てがこの鬼神を形成しているものだ。
純粋で清らかな魂を守るものだ。

「鬼火達が心配してるよ?さぁ、こっちに戻っておいで。鬼灯」

そっと口づける。閉じられた鬼の瞼からほろりと水滴が落ちたが、それは床に落ちる前に淡い光となって溶けて消えた。




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「オイ!起きろバカ鬼!!」

強い力で揺さぶられて、鬼灯は現実に引き戻された。
大きく息を吸い込もうとした音が、ひゅっと歪な音となって耳に届く。

「もう吸うな。吐き出す事だけ考えろ」

手で口を塞がれてしまったら、吐き出せと言われても無理ではないか。そう抵抗しようとしても床に投げ出された手足は動かない。いや、小刻みに痙攣しているらしく、その感覚すら無い。

「ふ、っ…ぅ…う…」
「ゆっくりだ。体の力を抜いて落ち着け」

空気を求めて喘ぐ口は嗚咽のように震えるばかり。息苦しさから吸い込もうと開けた唇は強引に塞がれて呼吸が出来ない。
この状況は一体何だと鬼灯は混乱する頭で考える。

確か用意された衣装に着替えている最中だった筈だ。それが何故床に倒れている事態になったのだろう。
そして、それを何故スケコマシに抱きかかえられるような形で介抱されているのだろう。

「瞳孔がちょっと開いてる。脈は…、うーん…」

遠慮無しに肌に触れてくる白澤の顔はいつになく険しい。
しばらくぼんやりと白澤を見上げていた鬼灯だったが、せっかく着た装束を緩めようとする気配にようやく我に返った。

「はく…、白豚さ、ん」
「言い直すなよ、ここは白澤さんって言う所だろ」
「何触ってやがる、放せ変態」
「はあ?せっかく僕が助けてやったんだろ!感謝しろよ!!」
「頼んだ覚えはありません!」
「暴れるな!まだ戻りきってないんだから!」
「何の事です!さては何かしやがったな貴様!」
「違うって!だから助けてやったんだって言ってるだろ!!」

腕の中から逃れようとする鬼灯は、先ほどの子供のような愛らしさは一欠片も残ってはいない。体格も自分と変わらない程大きく、柔らかくも無い重く筋肉質な体。
ああもう本当に、何であんな可愛い子がこんなになってしまったのだろうと白澤は嘆く。

「なぁ、もしかして…覚えてないの?」
「何のことですか」
「…ならいいよ」

しかも先ほどのやりとりすら記憶に無いらしく、白澤は更にがっかりした。
まるで将来一緒になりましょうと誓った男女のような契約を結んでしまったというのに、覚えているのは自分だけとはいかがなものか。

「ほら、脈もう一回測るからじっとしてろ」
「…チッ」

医者の顔をしてもう一度、様子を見る為に首筋に指を添えれば嫌そうではあるが従う様子の鬼の顔をじっと見る。
青白かった顔色は普段の色に戻りつつあるし、冷たかった肌はようやく温かみを取り戻しているようだ。負担のかかった肌は冷や汗に濡れていたが、じきに収まるだろう。

あの無垢な子供の魂は確かに鬼灯の中で眠っている。鬼火と一体となり、鬼神の奥底に有る。
この無骨な鬼が先程まで言葉を可愛いあの子のような態度で接して来てもそれはそれで気持ち悪いかもしれないと思い直した白澤は、それきり話を切る事にした。

「何ジロジロ見てるんですか気持ち悪い」
「仕方ないだろ。僕だって好きでお前の顔なんて見たくないさ」

別に覚えていなくとも良いと思う。…お互いに結び合ってしまった縁は切れる事はないのだから。

「鬼灯君!!」

バァンと扉を壊しかねない(実際は少し壊れた)音を立てて入って来た閻魔とその他は、床に横たわった鬼灯とそれを介抱する白澤の姿に驚くばかりだ。

「え?白澤君??これは一体どうしたの!!鬼灯君?!」
「あー…、えーっと。過労と貧血?かな?」
「…そうなの?」
「気を失っていたので分かりませんが、コイツが言うならそうかもしれません」

ようやく体の自由が利くようになった鬼灯は、白澤の力を嫌々借りて立ち上がった。
嫌悪感まる出しの視線を白澤に向けた鬼灯だったが、すぐに閻魔大王の方へと向き直ると深々と頭を下げる。

「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。もう大丈夫です」
「本当に大丈夫かい?」
「はい」
「ちょっと!介抱した僕にお礼は?」
「獣は立ち入り禁止ですよ、養豚場に帰れ白豚」
「はぁああ?!可愛くねぇな糞餓鬼!!」

お礼の言葉くらい言えと喚く白澤を無視った鬼灯は完全に元に戻ったようだ。
だが、あんな事があった直後だ。まだ安心して放り出せる状態では無いだろう。
仕方ない…そう心の中で呟いて、白澤はいつも身につけている数珠を手首から取り外した。

「オイ、闇鬼神」

それを乱暴に投げつけると、受け取った鬼灯は眉間に皺を寄せて不快な顔を隠さない。

「何ですかこれは」
「特別に貸してやる」
「嫌ですよこんな汚らしいもの」
「汚くない!いいから付けろ。大王、これくらいいいですよね」
「え?、うんまぁそれくらいなら…っていうかそれって白澤君の神宝じゃ…?」

その言葉に鬼灯の目の色が困惑に変わる。

「何の真似だ白豚」
「…赤は、黒と並びお前を守る色だから」

それきり白澤は部屋を出た。
これ以上時間を無駄にすると神事に間に合わないだろうと判断した事もあるが、訳が分からないという顔をしたあの鬼に説明してやる暇も必要も無かった。
覚えていないアイツが悪い。悔しければ思いだせば良い、此方から教えてなどやるものか。


「あーぁ、あの子はあんなに可愛かったのになぁ…」

そういえば結局名前を聞いていなかったと思い出す。
今度あの鬼に聞いたら教えてくれるだろうか…いや、どうだろうな。

待っててと告げた天女の子はきっと怒っているだろう。どんな理由をつけて言い訳しようかと考えながら、白澤は会場へと続く長い廊下を鼻歌交じりで戻っていった。




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終わったら返しに来いとだけ告げて部屋を出てしまった白澤を追いかける事も出来ず、鬼灯は大急ぎで支度を整える神官達に髪を結われ衣装を着させられて、矢倉まで引っ張られるようにして連れてこられた。
開始の刻限をギリギリになってしまった事で、舞台裏で落ち着いて会場を伺う余裕すら無い。

鬼灯は自分の姿をもう一度見る。壁に備え付けてある姿見に写るのは頭の先から足下まで全て白い装束の自分の姿だ。その格好はたかが色と思っていても落ち着かない、苦手だった筈の姿だ。
それなのに、妙に冷静でいるのはどうしてだろうか。

(ああ、そうか…)

右手を見れば赤い数珠。薄暗い灯りの下でまるで鮮血のような輝きを放っている宝玉は石を加工したものだというのに驚くほど軽く、一体どんな鉱物で出来ているのか検討もつかない代物だ。
あの白豚の持ち物だというのが不快ではあるが濃い紅色のそれ自分の手元に有る、それだけの事に酷く心が落ち着いた。

鬼灯は弓懸(ゆがけ)を指に通し、覆う為の胴と呼ばれる皮布を数珠を隠すように巻きこむとそのまま紐できつく固定するようにして締めた。これならば少々強引で不格好だが目立たないだろう。

本当なら白以外を身につけるのは決まりに反する事なのだろうが、腐っても神獣の宝。もらえる吉兆は貰っておくに限る。
それに、清めた肌も散々白豚に触れられて汚れてしまっているし、鏡を割って肌に傷を付けてしまったのならせっかくの沐浴の効果も無くなってしまっただろう。
本当に、最初が肝心だというのに散々なものだ…。

「とりあえず、これが終わったら一発殴っておきましょうかね」

白が決まりの神事に傲慢にも赤を寄越してくるその態度が気に入らない。ふわふわとした極楽蜻蛉のくせに、こんな時だけ手を出してくる、そんな気まぐれさが気に入らない。
何もかもがしゃくに触るのだ…あの神は。

「鬼灯君、本当に大丈夫?」
「しつこいですよ大王。心配いりません」

あのヘラヘラした顔を思い切り殴り飛ばせばこの妙な気持ちもスッキリするだろう。
先に上がった閻魔大王の後に続くようにして、鬼灯は神々の待つその舞台へと続く階段に足をかけた。








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「は〜凄い人だかりですね」

白澤の後ろをついて行きながら集まる神々を横目に見た桃太郎は、普段見られないその大勢の神に感銘の声を上げた。
平成になった現世では一部の神社などでしか行わなくなったそうだが今日は小正月にあたり、それに伴って地獄は毎年行っている神事があるのだという。

「そりゃぁ、年の始めだからね」

白澤は人混みを器用にかき分けながらどんどん先へと進んでゆく。その背を追いかけながら、桃太郎は不服そうに口を膨らませた。

「それよりもさっきは何処に行ってらしたんです。俺危うく迷う所でしたよ」
「ごめんごめん、ちょっとねー」

もっと早く場内に入っていれば、こんなに人をかき分けて進まなくとも見えやすい場所に行けた筈なのだが、到着した途端ちょっと待っててと言い残してどこかへ消えた白澤に待ちぼうけを食らったのだ。
笑顔で誤魔化す白澤の様子に、また女性をナンパしていたのだろうと察した桃太郎はそれ以上追求する事はせずに溜息を吐き出す。

「ほら、始まるよ」

ようやく舞台が見える場所まで来た時にはもう神事が始まってしまっているようで、壇上に上がった射手が閻魔大王から矢を受け取る様子が伺い見えた。
黒衣の閻魔大王の姿もさることならが、補佐官姿のイメージしかない桃太郎にとって、白装束の鬼灯の姿というのは初めて見る光景だ。
聞けば、鬼灯が射手となって数百年目となるが未だ的を外した事が無いらしい。

右手に矢を左手に弓を構えた鬼灯は、ゆっくりと擦り足で舞台の中央へと進んでゆく。
足を揃えて一礼。三歩半前へ足を滑らせ一歩引く。
ぴんと張った背筋、視線は迷い無く前方はるか先の的を見据えて反らす事は無い。
真っ白に清められた鬼神はまさに神と見まごうばかりに神々しく、弓をつがえ頭上へ掲げながらゆっくりと引き下ろす。その流れるようなその所作に、周囲からはほぅとため息が聞こえてくるようだ。

「……」

完全に引き終わった弦がキリキリと音を立てる。その微かな音すら会場に響くほど静まり返った場内がやがて歓声に包まれるのに時間はかからなかった。
鋭い眼光でねらいを定めた刹那、放たれた白矢は見事的の中央を居抜きパァンと音を立てて中央から真っ二つに割れて地面へと落ちてゆく。それを拍手で見送る者。歓声を上げる者。これで今年一年安泰だと近くの者と話す声。それぞれが年始めを祝い合った。

「あれ…?」

盛り上がる人混みの中、白澤の隣でその様子を観戦していた桃太郎は、一礼して舞台を降りる鬼灯を目で追ってその違和感に首を傾げた。

「白澤様。鬼灯さんの衣装は全部白だって聞いてたんですけど違うんです?鬼灯さんの手首に赤い何かが見えたような…」
「さぁ?…こういうのはただの形式なんだから、別にいいんじゃない?」

両手を白衣のポケットに突っ込んだままの白澤は、桃太郎の問いかけに嬉しそうに笑っただけであった。



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