モフモフのご褒美


第一補佐官の執務室の鍵を閉めた鬼灯は、固まった首をコキリと鳴らして、ふうと息を吐き出した。
廊下は薄暗いし、楽しみにしていたテレビ番組もとっくに終わってしまった時間帯。今は部屋の邪魔になりそうな健康器具を延々と流す通販番組か、耳に煩い砂嵐しか写さなくなった画面は見る気にもならず、仕事中に掻き込むようにして食べたか食べてないか分からないような夕食の仕切り直しをする為に食堂へ行く気力も無い。もはや、風呂に入るのも面倒だ。
仕事の過労で疲れきったこの体に今一番必要なのは、快適な睡眠と安らぎだと思うのだ。

もちろん普段使い慣れた布団の柔らかさと包容力は格別であるのだが、どうも其れだけでは今の疲労度を効率良く回復する為にはもの足りない。
そう、いわば今日まで修羅場を乗り切った自分へのご褒美が欲しい。

例えば、就寝中に添い寝してくれる動物がいるとか理想的だ。
自分の肌よりも少しだけ高い生き物の体温とそれを覆うふわふわとした体毛の触り心地。うん、最高だ。
規則正しい鼓動の音に耳を傾ければ、きっと直ぐに夢の世界へ旅立てるだろう。

(シロさんのモフモフ、辛子さんのモフモフ、火車さんの…)

それらのモフモフに埋もれるようにして眠る事が出来たなら、石のようにコリ固まった肩だとか使い過ぎて痛みを発する頭だとか、引きずるように重い体だとかが一晩で回復する筈だ。

ああ、癒されたい。
今この瞬間、モフモフに癒してほしい。
愛くるしい顔で足下にまとわりつかれたい。
それを心行くまで撫で回したい。
その後、癒されながら眠りたい。
夢の中までモフモフに癒されて、目が覚めたら眼前にあるだろう添い寝のモフモフを即効抱きしめてゴロンゴロンしながら二度寝したい。いや、しよう。モフモフしよう。
迅速果断、決めたら即行動に限る。


さて問題は、どのモフモフに添い寝をお願いするか…という事なのだが。
この疲労に対してのご褒美となると、生半可なモフモフでは駄目だ。
短い毛も良いが、長い体毛の方が良い。小さいのも可愛らしいが、大きな体格がいい。包むよりも包まれたい気分。

指に絡めてもするりと流れてしまう長い毛の感触。日光を浴びてふわふわに空気を含んだそれは干したての麦のような薫りがするだろう。
それが腕といわず脚といわず首筋や顔まで埋もれるようにして、自分の体重を受け止めてくれる。
そんな最高級モフモフのご褒美。
鬼灯は考えを巡らせながら無意識の内に首をことりと傾けた。

(やはり、あの駄獣が適当か…)

妥協を一切せず理想だけを並べていけば、自ずと全て満たす本命のモフモフは絞られる。
桃源郷のあの駄獣。もちろん人型ではなく本来の姿の方だ。普段はあまり見せないその本性は憎らしい程に素晴らしいモフモフだったりする。

あの白く透き通るような長い毛は根元から毛先まで細く柔らかい。毎日風呂に入っている綺麗好きな体質は、きっと顔を埋めても甘くて良い香りがするだろう。
寝転んでも自分の体重を受け止めて直余りある大きな体格は多少潰してしまっても問題無い程丈夫に出来ている。

「白澤さん…いや、モフモフさん…」

ああ、愛しい。
愛しくてたまらない。
想像しただけで胸が高鳴る。
ご飯なら10杯はいける。

自室とは逆の方向、外へと続く廊下を歩きながら、鬼灯の頭の中の過労ゲージは計測不能まで振り切れて、まさに御花畑状態だったのだ。




■■■■■



「今、店にいらっしゃいますか」

深夜にかかってきた電話に出た僕は、丁度一升瓶1本分のお酒を飲み終えて良い感じに酔いが回ってたんだ。
しかも、同伴してる女の子達と野球拳の最中で、まともな判断力なんて無かったんだ。

だって分かるだろう?今まさにじゃんけんに負けて薄着姿になった女の子が次は負けないからと挑発的に脱いだばかりの着物を此方へと投げて来てるんだよ。
バサリと頭から被ったその布は人肌の温もりが残っていて、とても良い香り。
コチラは上半身の衣服はとっくに床の上だけど、枚数的には良い勝負。なんたってあと1回勝利を勝ち取れば彼女の体から削ぎ落とされるのは魅惑の襦袢だ。
今はまだ余裕を見せる彼女が頬を染めつつ細い腰紐を緩めて、ゆっくりと丸味のある肩から布を落とす姿を想像すればテンションが上がらない訳が無いだろう。
これぞ男のロマン。野球拳最高!と上機嫌にお酒を飲んでいた所だったんだよ。

「あっれ〜?どうしたのお前、こんな時間にぃ〜」
「…酔ってますね貴方。さては衆合の花街ですか」
「うん、今すっごく盛り上がってんの。だから邪魔すんなよ朴念仁」
「後ろから聞こえる耳障りな音を聞けば分かります。随分とお楽しみのようですね」
「そうなんだよ〜、だから要件があるなら手短にね。どうしたの?」
「仕事が一段落着きましたのでお会いしたいと思っていたのですが…、衆合にいらっしゃるなら止めておきましょう」
「あっそう、…それだけ?」
「ええ、ですから御気になさらず」
「ふふふ、ありがとね〜」
「いえ…それでは失礼します。せいぜい金をばら撒いて下さいね」
「うん、じゃあな〜」
「私は別の方に癒していただく事にしますので」

ぷっつりと途切れた通話画面。
直前に聞こえた言葉の意味を問い直す前に一方的に切れてしまった事に、僕は首を傾げる。
試しに電話をもう一度耳に当てても聞こえてくるのは規則的な機械音のみ。
一体何の要件だったんだろう?もう一度電話して確かめた方が良いだろうかと考える間に、女の子達が早く続きをしようと笑顔で手招きしてくる。
その至福の光景に一瞬にして意識を持ってかれた僕は、それきり鬼の言葉を深く掘り下げて考えるのを辞めたのだった。

そりゃあ恋人からの電話は嬉しいさ。
でも、僕だって予定ってものがあるんだし、何より今はタイミングが悪いよね。
これでも僕とアイツは嫉妬とか無縁の信頼関係を築けているんだよ。たとえどんなに僕が遊んでいても、アイツがどんなに僕よりも仕事を愛して僕を蔑ろにしていても、そんな事は想いの通じ合った僕達にとっては些細な問題なんだ。
もちろん聡明で寛容な恋人には日々感謝してるよ。後日改めてフォローするのは忘れちゃいけない大事な仕事だ。

だけどね。
今は目の前の誘惑に負けちゃうべきなんだよ。



■■■■■



深夜、極楽満月の戸を激しく叩く音が聞こえる。

熟睡を邪魔された桃太郎は、一体こんな深夜に何事かと、寝癖のついた頭と着崩れた寝着をそのままに、慌てて店の入り口へと向かった。
こんな時間に来る客といえば、翌日の開店を待てないほど急を要する病人か、もしくは師匠が誘った遊び相手の女性のどちらかだ。
どちらにせよ白澤宛の客人である可能性が圧倒的に高いのだが、肝心の神獣は数時間前に意気揚々と花街に繰り出して行ったきり帰ってこない。この時間まで戻っていないならば、おそらくは朝帰りだろう。

もし急を要する病人だった場合自分に対処出来るだろうか。緊急の場合は白澤を呼び戻さなくてはならないが、今頃は酒でベロベロになっているだろう。最悪女性としっぽり真っ最中という可能性だってありうる。連絡を取った所で捕まるだろうかと考えつつ、来訪者を確かめるべく桃太郎は未だ鳴り止まない扉の鍵を開けた。

「はい今開けます。どうされましたかー?」

勢い良く開いた扉の先に立っていたのは、今にも倒れそうな程青い顔をした行き倒れの旅人でも無く、血塗れのケガ人でも無く、師匠の色狂いに激怒した女性でも無かった。
そこには、暗闇に溶けてしまいそうな程の漆黒の髪と着物を纏う鬼神が一人佇んでいる。

「こんな夜分に申し訳ありません」
「いえ…、何か緊急のご用ですか?」

少しだけ乱れた髪先と、普段よりも早くなっている息づかいから走って来たのだと予想できて、桃太郎は半分開けていただけの扉を大きく開いた。
この男が深夜走って店に来たとなれば、やはり地獄で何かトラブルでもあったのだろうか。

「いえ、そうでは無いんです」

そういって首を振る鬼灯の様子に桃太郎は戸惑うのだ。
深夜に薬を受け取りに来る連絡も無ければ今受け持っている依頼も無い筈。ならば、深夜に住人を叩き起こしてまで訪ねて来た理由は何なのだろう。

「実は、桃太郎さんに折り入ってお願いがあるんです」
「何でしょう」
「私、徹夜明けでして、ここ数日寝てないんです」
「それはお疲れさまです。安眠に利くお茶でも煎じましょうか?」
「それは助かります。本当に忙しくて忙しくて…やっと先ほど落ちついたんですよ」
「はあ…そうなんですか」

よく見れば目の下の隈が濃いような気もすると桃太郎は考える。だが、それが一体どんなお願いに通じるのだろうか。
周囲には誰もいないのに、何故かこっそりと内緒話でもするように手を口元に添える動作が奇妙だ。そうして桃太郎の耳元へと体を寄せてきた鬼灯が、小さく囁いた。

「ですから今晩、ここに泊めて下さい」
「はいい!?」
「一晩だけでいいんです。朝には帰ります」

思わず声を出してしまった桃太郎の口に人差し指をあててシーっと制する鬼灯は尚も小声だ。
まるで、どこかの誰かに聞かれたらマズいとでも言うかのように普段の堂々とした彼らしからぬ態度と突然のお願いに、桃太郎は混乱するばかり。

そもそも、地獄から桃源郷までは日帰りできる距離だ。徒歩ならともかくタクシーを使えば更に時間が短縮される。
この男もちゃんと地獄に住居があるわけだし、独り身の気軽な生活だ。部屋を開けなければならない事情があったとしても、わざわざ遠く桃源郷まで来て宿を取る理由が思い当たらない。

そもそもこの鬼神と師匠は実は密かに恋仲である事を桃太郎は知っている。
「好きなタイプ=女の子」とのたまう神獣が唯一コイツだけは別だと言い切る大本命。
雇われ借り住まいの身である弟子にお願いするよりも、家主で恋人の白澤に直接連絡を取るのが自然だろうに。…それとも、白澤が外出している事をこの鬼神は未だ知らないのだろうか。

「すみません…今、白澤様は不在なのでそれはちょっと…」
「知っています。先ほど電話しました」

あ、電話したんだ。そう心の中でツッコんだ桃太郎をよそに、今度は妙にそわそわと落ち着かない様子を見せる鬼灯は続ける。

「ですが、あの白豚に振られてしまいました」
「え、そうなんですか」
「仕事が片付いたからお会いしたいとわざわざ電話したのに、…酷い男ですよねぇ」

ふうとため息を吐きつつも、舌打ちを忘れない。
その時の事を思い出すように目線を横にずらした後、同意を求めるように視線を流すその眼孔の鋭さに、桃太郎はまるで拷問を前にした亡者の如く震え上がった。

「会えないのは仕方ないのですが、一人寝をする気分でも無かったので、此方に伺った次第なんです」
「???」
「そこで桃太郎さんに、お願いがあります」
「はあ…俺に出来る事であれば…」
「あの豚は今花街で、女性にうつつを抜かしています」
「……?」
「だから私、あの淫獣と同じように…浮気をしようと思いまして」
「!!!」
「だから、桃太郎さんの部屋に…一晩泊めていただけませんか?」
「はあああああ!!??」

夜間にも関わらず再びとんでもない声を上げた桃太郎の口を直接手で塞いだ鬼灯が、再びシーッと指を立て、そのまま戸にかけていた桃太郎の手を掴み取り両手でそっと包み込む。それはまるで、女性が意中の相手に上目使いで頬を染めながら恋の告白するような…そんなシチュエーション。
だが、現実は背丈の高い鬼灯が桃太郎を見下ろしおり、疲労で更に鋭くなった眼孔と共に迫る姿は告白というよりは脅迫に近く、そんな威圧感たっぷりな鬼神を前にして、桃太郎は顔を赤くするどころか恐怖で青ざめるばかりだ。
白澤と同じように浮気をする為に、桃太郎の部屋に泊めてくれという事は、まさか。
まさか…。

「お願いです。一晩、…駄目なら4時間でもかまいません」
「無理です!!!というかドチラにせよ朝になるじゃないですか!!」

ありえない。そう桃太郎は悲鳴を上げる。
師匠に振られたから弟子に浮気とか。そんな穴兄弟みたいな関係ごめんだし、そんな事になったら間違い無くあの神獣の怒りを買ってしまうだろう。
そりゃぁ本音を言えば悪い気はしない。この鬼神はイケメン高収入のハイスペック。良い意味で男女問わず指示されており、動物にいたるまでモテモテだ。
更には、女狂いの淫獣と散々に呼ばれるこの店の神獣までもが何千年も懸想しており、その執着はちょっと病的。
それ故に一夜の過ちで得られる未来は絶望的で真っ暗闇。
そう顔を真っ青にして拒否する桃太郎に、尚も迫る鬼灯は、隈の出来た目元を少しだけ潤ませる。

「お願いします」
「駄目です!!」
「そこをなんとか」
「俺だって命が惜しいです!」
「もう死んでいらっしゃいますが?」
「そういう事じゃなくて!!!」

「あれ…は、まだご一緒でしょうか」
「はははい?」
「以前、桃太郎さんが話して下さったではないですか。お忘れですか?」
「ええええ、っと?」
「…子兎さんです」
「こ、ここ兎???…え?…兎?」
「はい」

今一体何の話をしているのだろうか。兎?兎って何だ?
そう混乱する桃太郎は突然の子兎発言に頭が回らない。
兎なら外に従業員の兎さん達がいる筈だ。そこらの草を掻き分けたら高確率で巣穴が見つかるだろう。寝ている兎達を起こすのは忍びないが、それと先程の浮気話とは全く話が結びつかない。

「ああ、貴方達も出てきてしまったのですね」

ふっと威圧感が反れ、鬼灯の意識が自分の足元へと向けられた。
腰を屈めて大事そうに抱き上げたのは片手にすっぽりと収まる程小さな毛玉だ。
鬼灯の手の中でもそもそと動いた後、可愛らしい耳をぴょこんと立てて立ち上がった…それは、生まれて間もない子兎だった。

「少し大きくなりました?」

鬼灯はその柔らかなモフモフに鼻先を埋めてうっとりと目を細める。
その間にも、二羽三羽四羽…、ぴょこぴょこと桃太郎の足元に寄ってくる其れらは、桃太郎が先ほどまで寝ていた物置部屋から次々と顔を覗かせて、おぼつかない足取りで必死にコチラへと群がろうとしていた。
ざっと数える限り、10羽程だろうか。

「兎って…」
「はい、子兎さんです」

何故それらが桃太郎の部屋にいるのかと云うと、数週間前に店の客人から貰い手が見つかるまで預かって欲しいと頼まれたものだ。
うさぎ漢方ならば兎の扱いもお手のものだろうと安易な理由で押し付けられたが、うさぎ漢方は決して動物園やふれあいパークなどでは無く、従業員である兎達は桃太郎よりも先輩であり、私用で世話を頼むわけにはいかない。
外に放置しては仕事中の兎達にも迷惑だろうし何より危なっかしいと、結局ある程度大きくなるまでは自分の部屋でその子兎達を世話していたのだった。

”昔、シロ達と体を寄せあって野宿したのが懐かしくて、布団に入れて一緒に寝てみたら、それ以来コイツら俺と寝るのが気に入ってしまったみたいで…。でも、結構布団の中で動き回るし、小さいから寝ぼけて潰してしまわないか心配で、あんまり熟睡できないんですよね”

確か、鬼灯が以前薬を受け取りに来た時に、話題の一つとしてそう話して聞かせた事があった。
その時にはそれほど関心を寄せているようには見えなかったが、内心萌えに萌えて羨ましくて仕方が無かったのだと語る鬼灯の様子に、桃太郎はようやくこの鬼神の目的を悟った。

「是非、私も一度兎さん入りのお布団で眠ってみたいと申し上げた筈ですが、覚えていらっしゃいますか?」
「いや、でも別に白澤様のいない今夜でなくても…それに浮気って…」
「白豚がいれば白豚に相手をしてもらうんですが、生憎今日は花街です。先ほども申しましたが私とても疲れているんですよ。白豚に癒してもらえないならば別の魅力的なモフモフに浮気してみるのも悪くないと思いまして」
「はあ、そういうことですか…」

ああ、なんだ。浮気ってそっちの浮気か…。桃太郎はほっと胸を撫で下ろした。
足元に寄ってきた子兎を両手いっぱいに抱き抱えた鬼灯の意識は、もう白いモフモフに釘づけだ。
腕の中でわちゃわちゃ動く其れは、兎の集合体というよりは、何か別の一個体のように見える。

「あれには言付けましたので問題ありません」

仕事疲れと睡魔はもうピークをとっくに越えているのだろう。小さな動物の体温とモフモフに癒されて、ゆらゆらと体を揺らし始めた鬼灯がけだるげに熱い吐息を零す。

「私を…癒していただけませんか?」

緩められた頬に、熱意を訴えるような潤んだ瞳。無防備すぎるほど警戒を解いたその体。小さな唇からゆっくりと吐き出された背徳的なそのお誘いに、桃太郎はゴクリと生唾を飲み込んだのだった。



■■■■■



朝、白澤はスキップしながら桃源郷までの帰り路を歩いていた。
その浮かれっぷりに地獄門で会った馬頭と牛頭からは随分ご機嫌なのねと声をかけられた程。
何故そんなにも浮かれているのかと説明すれば、昨晩はとてもとても楽しい夜だったからだ。

やはりお座敷遊びは辞められない。
可愛い女の子達と美味しいお酒を飲みつつ行うのは少しエッチなお遊戯。
商売柄手慣れている彼女らを打ち負かし、勝利を勝ち取った時の興奮と喜びといったら何のご褒美に例えられるだろう。

幸せいっぱい鼻歌交じりで歩きつつ、携帯を取り出して耳に当てる。
コールを数回繰り返した後、留守番電話のメッセージが流れる声を聞いて通話を切った白澤は、液晶画面を見つめて首を傾げた。

「おっかしいなぁ」

画面に映し出されているのは昨日の夜中に突然かかってきて、一方的に電話を切られた恋人の名前だ。結局朝になるまで真相を確かめる事はしなかったのだが、先ほどからリダイヤルを何度してもコール音だけで、あの鬼の声が聞こえてくる事は無い。
この時間ならばもう起床して身支度を初めている筈なんだけど…。そうぼやきつつメールを開く。
お店の女の子やナンパした女の子から入ってきたメールに返信しつつ、極楽満月まであと少し。

「あ、桃タロー君!」

丁度戸口から出てきた人影を見つけて遠くから手を振ってみる。
どうやら洗濯物を干しに出てきたらしい彼は、洗濯籠に両手いっぱい溢れるほどの衣類を乗せて、物干し場まで運んでいる所だ。
呼びかけた僕に気が付いて、頭を下げるその律儀な姿勢にますます僕はご機嫌だ。

ああ、今日は何をしようかな。
一緒に薬草摘みに行こうかな。
それとも兎さん達と一緒に少し難易度の高い薬の作り方を教えてあげようかな。

「おはようございます、白澤様」
「早上好、朝からご苦労様」

「これ干し終わったら朝食にしますので、ちょっと待ってて下さいね」
「是〜」

今日も良い天気になりそうだし、朝の御洗濯って見てて気持ち良い気分になるよね。
テレビのCMみたいに沢山干した白い布地が風に煽られて揺れる光景とか、お日様の光りを浴びてふかふかに乾いたタオルの感触とか大好き。

それなのに、まず最初に桃タロー君が洗濯籠の中から取り出したのは、黒い布…みたいなの。
真っ黒で、大きくて、水気を含んで重そうな…衣類。
こんなの桃源郷の綺麗な青空とパステルカラーの風景に干しても、全然爽やかじゃない。
こんなお葬式みたいに不吉で真っ黒な服なんて吉兆の僕と桃タロー君は持って無い筈…だよね?
(こんなのウチにあったっけ??)

首をひねった僕を後目に、桃タロー郎が其れをバサリと大きく広げていく。すると、その目の前に飛び込んでくるのは見覚えのある逆さ鬼灯。
一枚の大きなシーツかと思う程の布の端には鮮やかな赤い縁取り。恐らく襟に当たる部分で、それが何かと確認する必要も無い程見慣れたものだ。

「何コレ!」
「え、鬼灯さんの着物ですよ」
「知ってるよ!!そうじゃなくて!!」
「ああ、一緒に洗うの駄目でした?色移りとか気にされたんならー…」
「違う!何でコレが洗濯物の中にあるのかって聞いてるの!」
「そりゃあ、昨日の夜に鬼灯さんがいらっしゃったからですよ。ちょっと汚れてたんで朝俺が洗濯するついでに一緒に洗いましたよ。心配されなくても、ちゃんと色物と分けて洗いましたから大丈夫で…」
「鬼灯が来てるの!?今!!??」
「え、はい。あれ…聞いてませんか?」

きょとんと首を傾げる桃タロー君の洗濯の言い訳なんて知らないよ。
僕にとって今一番重要なのは、鬼灯が今此処に来てるって事。僕の大事な恋人が来てるって事!!
ああ、昨日電話がかかってきた時にいい加減な態度を取ってしまった事を今更後悔するなんて。
野球拳にかまけて恋人の本心を察してやれなかったなんて。
仕事が忙しいのは知ってた。なかなか会う暇が無いのも知ってた。
その上で、やっと暇が取れて律儀に僕に会いたいと連絡してきてくれたのに。
あの鬼灯が僕に!!滅多にデレないあの闇鬼神がデレていたのに!!なんて惜しい事を!!
ああ、ちくしょう。
きっと僕に慰めてもらいたかったんだ。
仕事でつかれきった体を僕に預けて、夢心地でトリップするくらい甘やかして欲しかったんだ。
中も外もドロドロに溶けちゃうくらい滅茶苦茶にされたかったんだ。

きっと火照った体を持て余して、いてもたってもいられなくなっちゃって、僕がいないと分かってるのに此処まで押し掛けちゃったんだ。
僕の香りが残るベットで涙を咬みながら、僕の名前をぽつり呟いて、疼く肌を抱きしめながら寂しく夜を明かしたんだよ。きっとそうだよ!
待たせてごめん。寂しい思いをさせてごめん。

「鬼灯ぃぃっ!!!!」

大急ぎで駆けだして、バンっと勢い良く開けたのはもちろん自分の部屋の扉だ。
部屋の奥にあるベットの上には、緋襦袢の儚げな恋人の姿が居てー…。

「あれ…?」

いなかった。
きょろきょろと部屋中を見渡すけれど、身長185センチの鬼の姿は無い。
それどころか、ベットはピンと張ったシーツが掛けられて、上掛けも綺麗に畳まれていて…、未使用状態。

「えー?」

あれぇ?鬼灯が来てるんじゃないの?
会えない寂しさを噛みしめながら僕の部屋で寝てるんじゃないの?
僕に甘やかしてもらいたくて、待ってるんじゃないの?
まさかもう帰ったわけじゃないよね。着物は桃タロー君が今干してるんだし。
奇跡的なタイミングですれ違った…訳でも無いし。
もしかして厠とか…でも無いし。
朝のお散歩…とかするキャラだっけ?
そんな事をつらつら考えつつ、もう一度桃タロー君に鬼灯の居場所を聞き出す為に引き返した時だった。


カチャリ

「あ」
「…え?」

僕が開けた扉とは違う扉が不意に開く。
そこから出てきた人物がふいに声を上げたんだ。
長身の地獄の鬼神が乱れた緋襦袢姿のまま、朝の空気にあるまじき色香を漂わせたまま、くしゃくしゃになった使用済みのシーツを片手に…。

桃タロー君の寝室から、出てきたんだ。



■■■■■



あー…めんどくせ。

そう桃太郎は思った。露骨に顔に出てしまう程思った。
隣には昨晩お楽しみになった子兎を1羽膝に抱いて素知らぬ顔をする地獄の第一補佐官様。
そして目の前には、恨みたっぷりの視線で此方を睨む己の上司だ。

「さて、説明してくれるかな?」

そう言いつつ笑顔をむける白澤の目は1mmも笑ってはいない。トントンと指先で机をタップするその動作が次第に早くなり、まるで何かのカウントダウンのように聞こえてくる。
その状況は、まさに3角関係のもつれから家族会議に発展した修羅場状態。

あっれー?これって俺の責任なのか?
だって鬼灯さん白澤様にはちゃんと言付けたって言ってたよな。なら何で師匠はこんなにご立腹してんの?
「説明も何も、別の方に癒していただきます…と昨日の電話で申し上げたではないですか」
「そんな事聞いてないよ!いや、聞いたかもしれないけど、最後の最後にボソッと言った言葉なんて覚えてない!!」
「自覚があるなら結構。だって、貴方お取込み中でしたでしょう?」
「それはっ…そうだけど…っ」
「邪魔するな朴念仁と言ったではありませんか」
「…う…」
「ええ、白豚さんのご想像通りですよ。私…昨晩は桃太郎さんの部屋で浮気しました」
「!!!」

しれっと答える鬼灯さんは完全に開き直っているし。
その態度に相当ダメージを負ったらしい神獣が俺を涙目で睨んでくる。
いや、浮気相手は俺じゃねぇし!
確かに俺の部屋で鬼灯さんはモフモフの浮気をしたけど、相手は俺じゃなくて膝の上の小動物だ!
「桃太郎さんは、私の我儘に付き合って下さっただけです。とろけてしまうくらい…素晴らしい夜でした」
「そんな!まさかの桃鬼なんて僕は許さないよ!!!」

何だよ桃鬼って…。
まだ少し寝ぼけているらしい鬼灯さんは、うっとりと昨夜のモフモフに埋もれる夜を思い出しているようだ。
10羽の子兎を襦袢の中に全部入れて悦って震えてる鬼灯さんの姿はそりゃあ幸せそうだったさ。
もぞもぞと素肌と着物の間で動き回る兎の感触に、時々ちょっと色っぽい声が漏れてたとか、床で寝ていた俺は聞いてない。うん、聞いてない。
今だってその子兎をモフモフし続けているし、兎の方もまんざらでもない感じが微笑ましい。
だけど、その姿が白澤様のメンタルに、改心の一撃をお見舞いしている事は自覚しているんだろうか。

「あ、ですが流石に寝台がシングルだと狭いですよね。動き辛いというか体が密着してしまうというか。いえ、それもまた良いんですけれど」
「僕だって腕枕して寝かせたりしてるじゃん!!肌といわずアレまで密着しまくりで寝たりするじゃ…あ痛っ!!」
「朝っぱらから、卑猥な発言は慎みなさい」
「……でもでも…」

ふうとため息を吐き出す鬼灯さんは徐に懐から携帯を取り出した。カチカチとボタンを押して、映し出された画面をそっと机の上へ置くと、ことりと首を傾けて目を細める。

「昨晩は、お楽しみでしたね」

その携帯電話の画面には、ぐでんぐでんになった全裸の男と、薄着の女性の姿が映っていた。
プライバシーの為か、顔にはアプリで付けたような簡単なモザイクがかかっていたが、そのだらしない姿の男が誰なのか…考える必要も無い。

「SNSって本当に便利ですよねぇ」

まるで独り言のように呟く鬼灯はあくまで無表情。それが逆に怖いというか恐ろしいというか…。その証拠に写真の主は、今までの勢いが何処に行ってしまったのかというくらい小さくなって震えていた。
画面を下へスクロールすれば、2枚目3枚目と表示される昨晩の光景。

「ごっ…ごめ…鬼灯…これは…」

弁解するつもりで口を開くが、決定的な写真を突きつけられては言い訳も何も無い。
画面の中には男なら一度は憧れる光景というか、俺でもうわぁ…と思う程の、何というか、うん…お楽しみだったんですね。

「…白澤さん」
「ひゃいっ!」
「気にしていませんよ」
「鬼灯…」
「私が地獄で寝る間も惜しんで働いている時に女性の所で遊んでいようが、ナンパしていようが」
「……」
「お会いしたいと電話したのに、女性との野球拳を優先しようが」
「ごめん…」
「だから、私が二心を抱いても許していただけますね」
「それは駄目!!」

バンと机に手をついた白澤の顔はいつに無く真剣だ。
”恋人が浮気したから、自分も浮気しても良いだろう”そんな鬼灯さんの説明もどうかと思うが、散々証拠を突きつけられても未練がましく縋り付く男もどうかと思う。

「…では、言い方を変えましょうか」

その反応を確認した上で、鬼灯は続けた。

「白澤さん、昨日の夜…貴方に振られてしまった後に私がこれを見つけてしまった時、どう思ったか…分かりますか?」
「そ…それは…その」
「もう、私との関係に飽いたのではないかと思っても、しょうがないとは思いませんか?」
「そんな事ないっ!!僕はっ…」
「あまりの悲しみのあまり、うっかり出来心を覚えてしまった…としたら、信じていただけますか?」
「……」
「…気の迷いを起こして…申し訳ありません」
「ううんっ、僕の方こそごめん!愛してるよ鬼灯!!」
「白澤さん…」

鬼灯と白澤の様子を隣で観察していた桃太郎は、不毛な会話を冷めきった目で傍観している。
これは何だ?俺の前で繰り広げられているのは三文芝居か?痴話喧嘩を見せつけられているのか?それとも何かのプレイの一種なのか。
手と手を取り合って見つめ会うその光景は、第三者から見れば別れの修羅場から不仲解消し円満解決。めでたしめでたしという光景なのだが、だが勘違いしてはならない。
昨晩の鬼神の姿を知っていたなら、これがどれほどに馬鹿らしい遣り取りか分かるだろう。
欠片も心が籠っていない謝罪に感動してウルウルしている神獣には悪いが、アンタ騙されてますよ。この鬼神は昨日意気揚揚と浮気する気満々だったんですよ。…なんて言えやしない。

「一つお願いを聞いていただけますか」
「何?、鬼灯のお願いなら何でも聞くよ!!」
「…今夜、空いていらっしゃいますか?」
「もちろん!!!」
「では、一緒に過ごしていただけますね?」
「もちろん!!」
「やはり、貴方が一番です。今晩、獣の姿で一晩寝台代わりになってモフモフさせなさい」
「もちろん!!!…って、へ?…え?」
「来てから帰るまで、最初から最後までですよ。人型になるような事があるなら部屋から追い出しますのでそのつもりで」
「えっ…ちょっと待ってよ!僕達仲直りしたんだよね?今すっごい良い雰囲気だったよね?」
「それは今晩の貴方の努力次第です」
「人の姿が駄目って…じゃあエッチな事は?肌と肌の触れ合いは?」
「…全く、貴方の頭の中はそればかりですか。良いんですよ、昨日の女性達の元に行っても私は構わないと申し上げているんです。ただし、それならば私は2夜連続で桃太郎さんのお部屋にお邪魔するだけですから」
「それは駄目!浮気は駄目!!」
「では、ご了承戴けますね?」
「…う…、…っ…うん…」
「愛してますよ、モフモフさん」

しぶしぶ頷いた白澤様に満足した鬼灯さんは兎を置いて立ち上がる。

「桃太郎さんお世話になりました。昨晩のお礼はまた後日。着物が乾いたらこの白豚に持たせて下さい。それでは…今晩閻魔殿でお待ちしていますよ」

ぺこりと頭を下げて店を後にした鬼神の後ろ姿と、手が出せない据え膳を一晩中耐えるという生き地獄を数時間後に控えて悩みだす淫獣を見比べて、俺はついて行けないと結論付けて考えるのを辞めた。



■■■■■



この駄獣をモフモフしようと思ったならば、方法は2つ。
本性を表す程に殴り倒すか、誠意を持ってお願いするかのどちらかだ。
もちろん、問答無用に殴った方が手っ取り早いし簡単だ。
だがその方法だと、獣に変わった時の毛並の質もどうしても落ちてしまう。やはり手触りは大事だ。
それに意識の無い獣をモフモフするよりも、此方の手腕に反応を示し応えてくれる方がモフモフのし甲斐があるというもの。

だがこの駄獣に素直にお願いするという選択も否である。
何かをお願いする…イコール契約という事になれば、相手も相応の何かを要求してくるからだ。
前回下手に出てお願いした時には、モフモフの時間よりも人型で相手をさせられた時間の方が長かったし、せっかく毛並みを堪能しているというのに、隙をついて閨事に持ち込もうとするから始末に終えない。

そもそも、この私があの白豚に借りを作るなど以ての外。弱み一つも作ってはならない。
それならば、逆にあの豚の弱みを握れば良いのだという考えに至るのは自然な事だ。
元々堕落しきったあの駄獣を脅迫するネタなどちょっと歩けばぶつかる程、その辺にゴロゴロしているのだから。

相手が嬉々として要求を受け入れるよう仕向ければ良い。
首を縦に振らざるおえない状況を作り出して、此方の要求を提示する。初歩的な外交手段だ。

一番簡単で確実なのが、私と付き合っていると宣う奴の腐った女性関係を利用して、別れ話をチラつかせる事だろう。
体の関係があるからといって全てを手に入れたかのように錯覚する豚に未練など全く無いが、こちらに利があるなら話を合わせてやっても良い。

「本当に、ちょろい神様」

地獄への帰り道を歩きながら、今夜やって来るだろうモフモフのご褒美に、鬼灯は頬を緩ませたのだった。



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Fペシア