一晩も待てない 前


爽やかな朝の日差しが室内へ差し込んでくる。その強い陽光が嫌でも覚醒へと導いてくるというのに、毎度毎度の二日酔いで白澤は寝台の上から動けないでいた。
早く目覚めようと動く頭は酷い頭痛を訴えているし、手足は普段の何倍も重く感じる。内蔵は胃もたれが酷く、咽の奥からは今にも何かが逆流するのではないかという程だ。
何度目かのチャレンジで、のっそりと体を起こしてみても更なる頭痛と不調に阻まれて、完全には起き上がる事は叶わない。
結局、もう一度枕に顔を埋めて呻くしか出来ないのだ。

「うぇー…」

胃から食道にかけての不快感は半端無く、辛うじて厠へ直行という最悪は免れたものの、このまま昼まで寝ていたいと思う。
もう飲みませんと譫言のように繰り返し、禄に働かない思考回路のまま今の状況を少しだけ後悔。…まぁ、後悔といっても今この瞬間だけであるのだが。


「おはようございます。うわ、またこんなに散らかしてー」

いつもの起床時間に起きてきた桃太郎が扉を開ける音が耳に入った瞬間、部屋の惨状にげんなりした声が聞こえてくる。
もう立派なお母さん的ポジションになった彼は、二日酔いでげっそりする師匠に向かって呆れつつも水を差し出した。

「謝謝」

冷たい水を一気に飲み干して立ち上ってもその動きは鈍く、のろのろと机にたどり着いた所でもう一度伏せの態勢を取ると再び動かなくなる。
亀並みにしか動けない師匠を放置して、桃太郎は散乱した酒瓶や塵屑を集め部屋を片づけ始めた。
毎夜毎夜よくこれ程堕落した生活を送れるものだ。呆れを通り越して今はもう「色んな意味で神獣すげぇ」としか思わなくなった桃太郎は、己は決してこうはなるまいと反面教師を心に誓う。
彼が此処で働くようになってから、ようやく定着した開店時間まであまり間が無い。
購入を希望する者や依頼をしに来る者。店主の人格はともかく腕の良さで評判の極楽満月は今日もそれなりに繁盛しそうだ。昨日無くなりそうだと思った薬草類は今のうちに補充しておかなければ。
あくせくと開店準備を始める出来た弟子の姿を眺めつつ、白澤は大きな欠伸をしてみるのだった。




「そういえば、昨日は来られませんでしたね」

薬草を出しながら棚の上にある紙袋を横目で見やり、桃太郎がふと呟いた。
脈絡の無いその言葉の意味が分からず、白澤はうー?、ともあー?とも云わぬ声を上げる。
本当にダメだこのダメ男は、と心の声が聞こえんばかりの顔をする桃太郎も、もう毎度の事過ぎて抗議する気力すら湧いてこない。

「鬼灯さんですよ。頼まれていた薬の受け取り日は昨日だったんですけど…お忙しいんですかね」

注文を受けてあらかじめ用意しておいた受取用の商品を置く棚に、一つだけ残っていた紙袋。そこには桃太郎の字で”鬼灯様”と書かれている。

「あんな奴の事なんかどうでも良いよー。つうか二度と来んな」
「またそんな事言って。俺、後で届けに行ってきましょうか?」
「いいよいいよ桃タロー君、別にそんな事してやんなくても依頼したのはアイツなんだから、その内取りに来るだろ」

律儀な弟子の提案を却下した白澤は、そんな事よりも黄連湯を作ってくれと強請る始末で、その棚の方角を見ようともしない。
未だ机の上に伏せたままのグロッキー状態に、ため息を混じらせて、「まぁ、そうですよね」と呟く。
その薬を依頼した鬼は、納期日よりも早く来る事はあれど過ぎる事は稀だ。だが自らが指定したその日を忘れているとは到底考えにくい。
時には2徹3徹もする程忙しい依頼主の事。忙しければその内誰か違う者が受取に来るだろうと、桃太郎も大して気にしなかったのだ。

年中春まっさかりの桃源郷で半ば趣味と色事道楽の資金を確保する為にやっているような師匠と、灼熱の地獄で忙しく働いている一本角の神鬼を思い、これが元凶でまた暴力の絡んだいざこざに発展しない事を願いつつ、桃太郎はもう一度大きなため息をこぼしたのだった。



それから更に数日後。

「どうも、ありがとねー」

薬を受け取りにきた女の子を口説いてはぐらかされて帰っていく後ろ姿を笑顔で見送って、白澤は大きく伸びをした。
今日はこれで店じまいにしようと桃太郎に声をかけて、今晩の予定に思いを馳せる。
そういえばここ最近衆合地獄で飲んでないなー。久しぶりに妲己ちゃんの店に行くのも良いし、可愛い女の子を肴に旨い酒を飲むのも良いな。ふふふ、どうしようかな。

そんな独り言を言いつつ携帯のメールをチェックする姿に桃太郎は冷たい視線を向ける。
何度ぼったくられても何度振られても本当に懲りない人だ。
店の前に掲げた営業中の看板を下げた彼は、片づけが終わったら自分も久々に一寸法師でも誘って飲みにでも行こうかと考える。


「あれ?…鬼灯さん、また今日も取りに来られなかったんですね」

明日納期の薬を棚に並べながら、一番手前に寄せたその袋を手に取って桃太郎は再度首を傾げる。
ここ数日は芝刈りや薬草摘みなどで店を出ている事が多かったから、きっと自分がいない間に誰か取りに来るだろうと大して気に留めていなかったのだ。

こんなにも取りに来ないのはやっぱりおかしいと思うのに、当の店主は今晩声を掛ける女の子の名前を指折り数える最中で、全く話を聞いていない。
そういえば、何度か閻魔庁から依頼された薬を別の鬼が取りに来た時も、お代は今度で良いからと一緒に言付けてもらおうとお願いしようとしたにも関わらず、この男は「頼まれてもいないのに、そんな事をしてやる必要は無い」と却下したのだ。
いくら仲が悪いからといっても、それはそれ。これはこれ。
依頼と報酬が絡む要件はちゃんとしなければ、極楽満月としての信用問題だと桃太郎は思う。

「白澤様。やっぱり俺、明日届けに行ってきますよ。」

もしかしたら何か事情があるのかもしれないしと向き直ると、今度は女の子に電話を掛けているらしく、熱心にラブコールを送るのに夢中で桃太郎の話など全く聞いていない。

まともな返答が望めない師匠に一方的に声をかけて、桃太郎は汚れた皿や鍋を洗うべく蛇口を捻った。
大なべや皿、その他もろもろが山のように積みあがったシンクを片付ければ、後は掃き掃除くらいだろう。そういえば外に干していた薬草は取り込んでおかなければ。
頭の中でこれからの段取りを振り返るのと、音を立てて流れる水の音にかき消され白澤の楽しげな話声はもう耳には入らない。

パタンと携帯を閉じたその男が、普段見せないような険しい顔で棚の上に残ったその紙袋を睨んでいた事など、桃太郎が知る由も無かったのだ。




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夜も更け込んだ閻魔庁は無駄にがらんと広く、そして静かだ。
最低限の灯りだけがある大理石張りの床は踏みしめる度に音を立て、広い空間を反響してゆく。
普段は亡者や獄卒が数限りなく行き交うその場所は、今は誰の姿も無い。
その中で唯一といって良いだろう明かりの付いた部屋。
第一補佐官の執務室で仕事を続けるその部屋の主は、何枚も積み上げられた書類の束と巻物の中で黙々と職務を続けていた。

「……ふう」

読み終わった書類に判と署名を押し、筆を置いた鬼灯は皺の寄った眉間を指で揉み解すようにしてしばし目を閉じる。
思い返せばここ3日は寝ていない…気がする。というか、もう何日徹夜が続いているのか数えるのも面倒になってきた。
それもこれも、あのバカ大王がぎっくり腰で寝込でしまい、全く仕事が片づかないからだ。
こっちは寝る間も惜しんで働いているというのに、当のデブは病室で寝放題だと?
嗚呼腹立たしい腹立たしい腹立たしい。
本日何百回目かの舌打ちをしつつ、もう一枚書類を手に取る。
そう、気分は最悪。イライラは最高潮に達していた。


”今の鬼灯様に気安く声を掛けた者は生きては帰れない”
そんな噂が閻魔庁中の獄卒に囁かれている現在では、時間帯も相まって訪ねて来る者も無く、ただひたすらに書類をめくる音と筆の音、時折ポンっと判子を押す軽快な音だけが静寂した空間に響いている。
実質、のこのこ訪ねてくる輩がいたならば半殺し所では済まないだろう。
それなのに、だ。

誰もいない筈の廊下に響く足音が一つ。
声も無く背後から忍び寄ろうとする人影がいる事に気配だけで気づいた鬼灯は、それが誰なのかを確認する事もせずに反射的に手もとにあった金棒を掴んでいた。


ドォオオン!!
派手な音を立てて壁に金棒が突き刺さる。というか、衝撃で周囲に大きな陥没と亀裂が走るその威力は、不機嫌もプラスされて普段よりも3割増し強力だ。だがそんなにも無惨に破壊した残骸の中に標的はいないらしく、悲鳴も何も聞こえては来ない。
避けやがったのだと早々に気が付いた鬼灯はチッと舌打ちし、再び手元の書類へと視線を落とした。

「あっぶないなー」

ひょっこりと顔を覗かせたはこの場には似合わない白装束の(というか給食着にしか見えない)男だ。
床に散乱した壁の残骸を踏み越えて入ってくるその声は相変わらず飄々としていて楽しげで、声をかけたというのに背後を振り返る事すら無く仕事を続ける鬼灯の様子にも臆する様子が無い。

「何の用ですか。此処は関係者以外は立ち入り禁止です」
「ははっ、お前まだ仕事終わんねぇの?」

終始笑い顔を絶やさないその様子は恐らく飲みに行った帰りなのだろう。ゆっくりと距離を詰めてくる彼から漂う、酒と女性が好みそうな香水の匂いに鬼灯は眉間の皺を更に深くした。こんな時で無ければ、原型を留めない程度に顔を殴ってストレス解消をしているのにと青筋を浮かべた鬼灯の心情など全くの無関心で、白澤はこんな夜中になるまで仕事を続けている鬼の姿を嘲笑う。

もちろん、閻魔大王が寝込んでいるから仕事が回らないのだとこの男は知っているだろう。
酒と女を心ゆくまで堪能した後にわざわざ此方へ冷やかしにくるなど悪趣味も甚だしい。

「メールしたろ」
「気づきませんでしたね」
「何度も送ったのに」
「大した用件でもないのに返信するほど私は暇ではありません」
「…お前本当に可愛くないよね」
「それはどうも」

一方的に話しかけるその様子は絡み酒か。
相当酔っているだろうに、あの一撃を避けたという事がますます腹立たしい。
花街で遊びまくっていたのなら、この時間ならばどこぞの誰かと一夜のお楽しみの真っ最中であっても可笑しくないのに、一体何用か。

「お前さ、いつまで徹夜続ける気だよ」
「好きで続けている訳ではありません」
「来るって言ったじゃん」
「こんな状況で行けるとでも?」
「明日は?」
「さあ、どうですかね」

ポン、と判子を押す音が会話の終わりを告げる。
仕事に集中したい鬼灯はそれきり会話を続ける気もないのか、長い巻物を広げたり書類に何かを書き込んだりと手を休める事が無い。

「あの薬の納期、とっくに過ぎてんだけど」
「ああ、…それはすみませんでしたね。誰かに取りに行かせます」
「お前は来ないの?」
「時間が空けば」
「違うって、僕が言いたいのはそんな事じゃない」
「……」

あくまで事務的に会話を続ける男の態度に、白澤は声を荒げる。
納期の話をしているのでは無い。それを知っているだろうに素知らぬ態度を取り続ける喧嘩腰の姿勢が気にくわないのだ。

「待ってたんだからな」
「……」

つまりはあの納期の夜、白澤と鬼灯は逢引の約束をしていたのだ。
ほんの一時の気まぐれに何となく…といった具合に始まった体の関係の優先度は、お互いに限りなく低い位置にあった。例え日を決めたとしても、仕事が忙しければ鬼灯は仕事を優先するし、女の子の誘いがあれば白澤は其方を優先してきた。
仕事を理由に鬼灯が約束を無碍にした事など数知れず、白澤と他の女の現場に鬼灯がダブルブッキングしてしまい問答無用で粉砕された事だってある。
それでもお互いを待ちわびるとか。逢いたくて堪らないとか。逢えないと悲しいとか。そんな恋愛感情には無縁の関係であったはずだ。
たまたま白澤の予定が開いていて、来ると言っていた薬の納期日に鬼灯が来なかった、それだけの事だ。


「これじゃ何時まで経っても女の子を部屋に呼べないじゃないか!!」
「チッ…このスケコマシが…!」


抗議する動機が不純すぎて、鬼灯は思わず手に持っていた筆を折ってしまっていた。
この色情狂いは、一度本当に地獄に落ちれば良いのだ。
使い物にならなくなった筆を屑籠に投げると、代わりの筆を出す前に、煙管に火を入れる。

イライラを煙と共に口から吐き出して、寝不足から頭痛に発展しそうになっている額から瞼に手をやった。筋肉を解すように動かせば多少はマシになる気がする。
何日も徹夜して、こんな時間まであくせく働いているのは、少しでも仕事を早く終わらせようと努力しているからに他ならず、それが終わった後の予定に誰を入れているのかなど、察して然るべきであるというのに。

「閻魔大王も復帰しますので今後は多少仕事が空く予定です。必ず明日、薬は取りに伺います」

大きく煙を吸い込んで、長く長く吐き出す。

「だから、白豚はとっとと帰れ」




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もうコイツの顔は一瞬だって見たくない。
次に何か言おうものならその口を殴って喋る事など出来ないような状態にしてから…、いや、もう人型と認識できないくらい形状を変えた上で外に放り出してやろう。そうしよう。

「……」
「……」

帰れという言葉に何も返さない白澤は、じっと鬼灯を見つめている。先ほどまでのバカにした態度や、酔っ払い独特の浮ついた感も無くなったのが逆に妙で鬼灯は初めて白澤の方に視線を向けた。


「コレのせいで、僕の店の棚の上が占領されてるようで不快なんだよ」

黙って立ったままの男が懐から取り出したのは、手のひらの上に収まるサイズの紙袋。
その表面にはうさぎ漢方のロゴ、そして”鬼灯様”と書かれた文字が見える。大して重くもないらしく机の上に置かれると紙の音だけを上げて静かになった。

「ほぅ、…店主自ら配達していただけるとは、余程お暇だったんですね」
「暇なもんか。僕と遊んでくれる女性の相手をするには体が幾つあっても足りないね」
「大量受苦悩処落ちろ」

地を這うような低音に、ふふっと白澤が笑う。
暇だとか親切心という理由でも無い事は解りきっていたが、それでも白澤が此処に来た本当の理由を漸く察して鬼灯は知らぬふりをした。

「お代は今度でいいや、それよりも、わざわざこんな所まで持って来てやった僕をこのまま帰す気じゃないよね?」
「………」

火の消えた煙管を取りあげて、白澤はそれを丁寧に定位置へと戻しつつ、椅子に座る鬼灯の背後から体を寄せ姿勢を屈めて視線を合わせた。

「私を脅しているんですか?」
「まさか、誠意を見せてくれって言いたいの」

密着した背に更に体重を乗せても鬼灯は微動だにしない。
普段ならば仕事の邪魔だと殴りかかってくる腕も机の上だ。
抵抗する気がないと確認した上で動かないその手を掬い取り、指先の第一関節からゆっくりと舌を滑らせる。視線はあくまで挑発的に。最高に素敵でそれでいて厭らしい笑みを作って見せた。
女の子の約束も断って律儀に待っていたんだ。もう一晩だって待てないよ。

「ねぇ…鬼灯…?」

ぴちゃ、と唾液の音を立てて中指の付け根まで口に含み、舌で撫でる。指と指の間まで丁寧に舐る間も、目の前の鬼は不機嫌な表情を崩さない。

「…淫獣」

ふうとため息を吐き出したついでに囁いたその低い声音に、体の力を抜き諦めを見せたその姿に。それでいて今にも殺してやろうかとばかりに殺気を漲らせた視線が酷くアンバランスだ。
ああ、なんて心地良いのだろう。

それら全てに満足して、これから始まるであろう密事に期待を寄せて、白澤はニタリと嗤ったのだった。




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