温泉


桃源郷の普段は誰も立ち入る事の無い山の奥。
その秘密の場所にひっそりと湧き出る温泉は、どんな傷もたちどころに癒す効果があるのだという。


遠くで梟の低い鳴き声が聞こえてくる。
建物など無くただ岩を積んだだけという簡易な作りのその温泉に浸かりながら、鬼灯は何をするでもなく空を見上げていた。
湯気の間から見える漆黒の空には幾多の星が煌めき、時折流れ星が筋を作る。
こぽこぽと湧き出る水音を聞きながら細く長い息を吐き出せば、少しだけ気温の低い夜の空気が僅かに白く煙った。

足に触れている沈殿していた小さな砂利を気まぐれに蹴り上げてやればふわりと濁った湯が水流に沿って渦を巻き、やがて拡散してゆく。背に当たる堅い岩の縁にそってゆっくりと首の上まで体を沈めれば、額に浮かんだ汗が睫を濡らしながら湯へと溶けていった。

それをただ、何となく眺めている。


「げ、なんでこんな所にいるんだよ」

ガサリと薮をかき分けるような音と心底嫌そうな抗議の声はほぼ同時に鬼灯の耳へと届いたが、素知らぬ顔をした。
無関心のまま水中で息を吐き出せば、ぶくぶくと音を立てて沸き上がった泡が水面に映る月とこの男の抗議の声をかき消してゆく。

「此処は僕の領域だ!不法侵入だぞ、分かってんのかよ朴念仁」
「……」
「暢気に温泉なんかつかりやがってクソガキ」
「……」
「せっかく女の子と良い感じだったのに、デートがパァになったんだぞ!」
「……」
「オイ、聞いてんのか!みんな捜してたんだからな!!」
「……」

ぶくぶくと、まるで子供のように聞かぬフリを続けている鬼灯に焦れた白澤は掴みかかろうと手を伸ばしたが、湯に袖を濡らすだけに終わってしまう。
手の届かない中央まで移動した鬼灯は、相変わらず首まで湯に浸かったまま白澤と距離を取った。
普段ならばお返しに殴りかかるくらいがデフォルトだというのに、まるで関わりたくないとでも云うかのような態度をする鬼灯に白澤は溜息を吐く。


***

その日の昼過ぎ、地獄でちょっとした騒動があったらしい。拡張工事中に起きた崩落に巻き込まれた新人の獄卒を庇って、第一補佐官が負傷したというのだ。

最強と謳われる鬼神でも怪我をするのか、珍しい事もあったもんだと噂はたちまち広がって、花街で遊んでいた白澤の耳にも当然届いていた。
だが所詮噂は噂。鬼灯の人となりを知っているものであればあるほど、負傷の第一補佐官という姿を想像する事が難しく、白澤も当然嫌いな鬼の話題など右から左へと聞き流すだけ、気が向けば後でそれをネタにからかいに行こうくらいしか考えなかった。
それから数時間後、必死に探し回っていた唐瓜や茄子やお香達に「とても動ける状態じゃないのに病室から鬼灯様が消えた」と泣きつかれるまで、事の重大さを全く知る由も無かったのだ。

「……」

岩の陰には脱いだ着物が乱雑に置いてあるのが見える。その下に隠れるようにして見えるのは包帯の束だ。
恐らくは半死半生でここまで辿り着いて着物を畳む余裕すら無かったのだろう。
真っ直ぐに此方を睨む眼差しは相変わらず殺気立つ程に鋭いが、まるで怯えた獣を前にした時のような心地になる。責めている訳では無いのに妙な罪悪感が沸いてくるようなその視線を前にして、説教を続ける気だった白澤は諦めて浴縁の岩へとしゃがみ込んだ。

「別に僕もみんなも怒ってなんかないよ…ただ、心配なんだって分かれよ」
「……もう少しで戻りますと。伝えていただけませんか」
「嫌なこった」

せっかく苦労して迎えに来た自分にではなく、家族のように大事にしている地獄の仲間に対しての言葉など聞いてやる気は無い。
ようやく口を開いたかと思えばそんな事を言うのか。その鬼の態度が気に入らないのだ。
そっと湯に手をさし入れれば、とろりとした湯の感触が指に絡みつく。
無色透明の其れは温泉と云うには少々温度が低い。

「ここの湯に浸かれば何倍も傷の治りが早いって事を教えたのは僕だよね」
「……」
「じゃあさ、何で僕に連絡しなかったんだよ」
「……」
「僕がいるのに、何時間もこんな所に浸かってさ」
「…白澤さん」
「湯治っていうのは、正しい方法で行わなきゃ意味が無いだろ。体に負担をかけないように時間だって決まってるし、何日もかけて行うからこそ効果があるんだ」
「……」

靴だけ脱ぎ捨てた白澤はそのまま湯の中へと足を踏み入れる。
水気を含んだ衣服が足に絡んで少々歩きづらかったが、気にせず鬼灯へと近づいてゆく。
至近距離まで近づいても今度は逃げなかった鬼灯は何も身に着けてはおらず、小さく身じろぐ動きに合わせて濡れた髪からポタポタと雫が落ちた。

首筋から丸みのある肩へと触れ、指を滑らせて腕を掬い取る。湯から現れた白い腕にはシミ一つ無かった筈なのに、今は塞がったばかりの傷と擦り傷らしき赤みの跡。打撲のような黒い痣がうっすらと色付いているのが見える。恐らくそれが全身に、肌の上だけでもこの調子なら恐らくどこかしら骨折している可能性だってありうるだろう。
そっと持ち上げただけ筈なのに相当痛むらい。俯いたままの鬼灯の顔は影に隠れてハッキリとは見えないが、耐えるように唇を噛んでいるのを隠し切れていない。

(僕を殴りたくてたまらないんだろうけど、こんな体じゃ無理だ)


「迷惑かけたくなかったって事なんだろうけど、僕を頼らなかったって事だけは正直な所、ムカついてる」
「…すみません」

別に責めた訳じゃないけれど、小さくほんの微かに動いた唇が謝罪の言葉を紡ぐ。
本当にコイツらしく無い。もっと言い返せばいいのに。手を振りほどいて暴言を吐くくらいすればいいのに…、それさえも出来ないのか。

「とにかく立てよ。僕の店で療養するのが一番早いだろ。大王には言っておくからさ」
「…いえ、」
「こんな所に一人でずっと浸かってるより僕の作った薬の方がよっぽど効くんだからな」
「…ですが…」
「それとも、まだ僕に頼りたくないワケ?お前がその気なら無理やりにでも連れてくけど?」

繋いだままの手は湯に浸かりすぎてふやけきっている。
無理矢理引っ張って立たせようと力を込めた所で、思いがけず引き返された。

「…何」




「その、…誠に遺憾なのですが…のぼせてしまったようなんです」

だから立つ事が出来ないのだと。どうしようもないのだと。
長い長い沈黙の後、途方に暮れたような顔をして頬を膨らませて拗ねた鬼灯の様子に、ようやく白澤は吹き出した。




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★ワンライに参加した時に書いたものなので、後日修正するかもしれません



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