雪見


「私、これから八寒地獄に行くんです」
「ああ、そう」
「それにさしあたりまして、白豚さんに質問です」

特に何もない昼さがりの事。
扉をぶち壊して僕を殴って兎さんをモフるという一連の作業をし終わった鬼は、桃タロー君の入れてくれたお茶を啜りながら世間話をするかのように僕に声をかけたんだ。

「私が貴方を着るのと、貴方に着られるのとなら、どちらが良いですか?」
「は?」

何それ?謎かけ?どんな言葉遊び?新しい勝負事?
そう反応するのは当然だろう。いくら万物を知る僕だって、常闇鬼神の頭の中身まで理解している訳じゃないんだし。きっと100人中100人が僕と同じ反応をすると思うのに、思わず顔に出たのが気に入らないのか金棒で殴る理不尽さが理解できない。
それなのに。それなのに。



「あ、吹雪が弱まりましたよ白豚さん」

周囲は見渡す限り雪、雪、ゆき。空も地面も影すら無い一面真っ白な世界。

何故僕は、雪が降り続く極寒の地獄の断崖絶壁に獣姿で座っているのだろう。
そして、何故鬼灯は僕の胸毛に潜りこんでいるんだろう。
何この光景シュール過ぎて笑えない。誰か説明してよ。



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あの謎のやりとりの後、何故か僕は鬼灯を連れて八寒地獄に行く事になっていた。行くというか、拒否権なんて無い。いっそ強制連行に近い。
さも当然とでもいうかのような鬼灯の態度にあれよあれよという間に八寒地獄の門をくぐった僕達は、鬼に言われるがまま吹雪の空を飛行させられて、「此処で約束しているんです」という謎の言葉によりこの断崖絶壁に降り立った。
人型に戻る事は許されず、お座りの体制でこの場所に留まる事1時間。訳が分からない僕をよそに鬼灯はずっと僕の胸毛に体を埋めてモフモフしまくっている。

「ねぇ、一体いつまでこうしてればいいの?八寒に何の用があるんだよ」
「言いませんでしたっけ。この場所で春一さんから書類を受け取る約束をしているんですよ」
「聞いてない!!っていうか仕事なら僕関係無いじゃん!僕が来た意味無いじゃん」
「ありますよ」
「僕は無い!!」
「だって貴方おっしゃったじゃないですか。私に着られたいって」
「だから、それが分からないってさっきからずっと言ってるんだけど」
「では何故こちらを選択なさったんです?」
「それは、……お前が選べって言われたからなんとなく」
「なら良いじゃないですか」
「良くない!!」

会話は最初からずっと平行線だ。
「着られる」…られる、というのはつまりは日本の文法で云う助動詞。助動詞とは動詞の…、ああもう、寒くて頭が回らない。着るも着られるのも結局同じ意味なんじゃないの?日本語よく分からない。

僕の胸毛モフりを再開してしまった鬼灯をよそに、再び僕は白い世界で待ちぼうけ。
目線が一緒の人型の時と比べて獣姿は2、3倍は大きくなるから胸元にいる鬼の姿はよく見えないけれど、細い毛が密集して生えている首周りに指が潜り込んでもモゾモゾさせている鬼の顔は、きっとお花でも飛ばせるくらいにご満悦なんだろう。
こんな状況にさせられても顔が見えないのが何だかズルイと思ってしまうあたり、相当僕はコイツに絆されてしまっているらしい。

「寒い…しもやけになる…凍傷になる…」
「ぶつぶつ言わない」
「理不尽!!」

絶え間無く降り続く大粒の氷の結晶は容赦無く身に積もってゆき、定期的に体を振るわせて雪を落としたって意味が無い。時折荒れる酷い風で傘なんてさせないし、それ以前に獣姿だ。いくら長い毛に覆われているからといっても天国育ちの僕が極寒の地に適応出来る筈も無く、水気を含んだ体毛が重い。
ああもう、寒い。足が痛い。顔が痛い。鼻水止まらない。

「ちょ、足!足踏んでるって!!」
「白豚さんご存じですか?南極で暮らすペンギンは卵を寒さから守る為に足の上に乗せたまま飲まず食わずで我が子を温め続けるんですよ。素晴らしい自己犠牲愛だと思いませんか?」
「僕は卵を産んだ事も無いし鳥類でもない!!」
「おや、偶蹄類の自覚がありましたか」
「僕を分類するな!!ああもう限界だって!」
「私はとても温かいです。愛を感じますよモフモフさん」
「畜生!こんな時だけデレるな!!」

待ち合わせの約束の時間はとっくに過ぎているんですけどねぇ、と懐中時計を開いて呟く鬼の暢気な声が憎らしい。

「あと少しです。吹雪も止みましたから、もうじき来るでしょう」
「もう駄目!雪だるまになっちゃう!」
「今度私がしてあげますから」
「お断りだ!!」

その時、ゴウっという音を立てて地面の雪が舞い上がった。
細かな氷の粒が、光を受けてキラキラと輝いている。細氷…ダイヤモンドダストとか言うんだっけ。

「…白豚さん、雪は綺麗だと思いますか」
「まぁ、綺麗なんじゃないの」

いつの間にか、顔だけ外に出ていた鬼灯は風に靡く前髪をそっと耳へと掛ける。普段は色の無いその頬が寒さで僅かに赤らんでいて、ちょっとだけ可愛いと思う。
手袋などしていないむき出しの肌がまるで雪のように白くて、その手が僕の鼻の上に積もった雪をそっと払ってゆく。
濡れた外側の毛はもう凍り始めてガジガジになっていたけど、それを溶かすように2、3度指が上下して…。思わず舌を伸ばして舐めたら殴られた。

「私は…嫌いでしたよ」

わずかに微笑んだような気がしてその様子に見惚れてしまう。
何故だかわからないけれど、無性にコイツを抱きしめてやりたくなった。体毛越しじゃなくて、もっと直接的な触れ合いで温めてやりたい。キスしてやりたい。
しんしんと降り続く雪が、まるで世界に僕とお前だけしかいないかのように錯覚させるからだろうか。

「……」

ふわふわと落ちてくる綿雪を見上げて白い息を吐き出す鬼灯の横顔を眺めながら、僕は先ほどの言葉の意味を考えていた。
目の前に広がる景色は確かに綺麗だ。だがそれは雪に苦しんだ事が無い者が持つ感情だろう。実際にこの場は亡者にとっては刑場であり地獄である。
現代では暖房器具の発達や衣服の素材改良により気温の低下で命を落とす事は少なくなってきたが、つい数百年前までは電気すら発明されていなかったのだ。
冬の季節になれば寒さを理由に地獄を訪れる亡者の数も格段に増えるだろうし、実際に人として生きた事のあるこの鬼は鬼神となっても冬の厳しさがどんなものかを知っている。触れれば体温を奪われ皮膚が裂け、命そのものまでも簡単に失ってしまう危険な存在でもある。死の概念が無い僕にとっては永遠に理解できないものだろう。

「もしかして、お前…」

嫌いでした。と鬼は言った。
いうことは今は違うという意味だろうか。自分と同じく綺麗と感じる程に心安らかでいるのだろうか。
もっと言えば、自分と共に居るから嫌いではないという欲目を持っても良いという意味だろうか。
理不尽の理由だと解釈しても…良いのだろうか。

「一緒に来てほしかったんなら素直に言えば良かったのに」
「は?何を言っているんですかこの駄獣が」
「痛たたた!!目を攻撃するのはヤメテってば!!」

それきり何も言わなくなった鬼灯は、再度僕の胸元に潜り込む。
モフモフを再開した訳じゃない。長い手足を丸めて寄り添うその様子が図星としか思えなくて、僕はバレないように少しだけ笑った。


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「ああ、いらっしゃいましたね」

それから暫く後。
遠く小さく見える人影に気がついた鬼灯は、冷たい地面に足を付けて居住まいを正して立ち上がった。
黒い着物に付いた白い毛を手で払い、乱れた裾や襟元を整えるその姿は完全に仕事モードに切り替わっている。
徐々に近づく影は極寒のブリザードと異名を持つ雪鬼だっけ。軽装を通り越してモラル1枚の姿にのんびりした足取りで此方に向かって大きく手を振っている。
肩に担いでいるのは着替えと書類と…大きな魚のような何か。っていうか何あの魚、めっちゃデカい。

「八大は暑いですから、此処まで取りに来てくれたら御礼に幻の鮭を戴ける約束なんです」
「結局お前都合かよ」
「今夜は鮭鍋が良いです。楽しみにしていますよ白豚さん」
「お前なぁ…」

長い長い待ちぼうけの後ようやく始まった鬼の仕事に部外者の僕はまた待ちぼうけ。その背を眺めながら文句を言った言葉は吹雪の音でかき消されてしまった。
背を向けて数歩遠ざかる鬼はもう此方を見ようともしなくて、ちょっとムカつく。

「なぁ、鬼灯」

呼んでみた所で雪に遮られたその声は届かない。
さっきまで散々僕にべったりだったくせに。くっついて離れなかったくせに。

「…好きだよ」

その瞬間アイツがチラリと此方を見たような気がするけれど気にしない。どうせ届いていないんだから。…届かないくらいが僕たちには丁度良い。

「くしゅん」

降り続く雪を眺めながら、桃源郷に戻ったら散々僕の体温を貪った鬼にどうやって報復してやろうかと鼻を啜りながら考える。
まず温泉に入れて鮭鍋をたらふく食わせて、それから一緒の布団で眠りたい。ちゃんと肌を触れ合わせて温めてやりたい。
胸元にはまだ鬼の体温が残っているような気がして、白澤は2人の話が終わるまでの間その温かさが消えてしまわないように、そっと尻尾で覆い隠した。



春一と会話を続けながら、鬼灯はつまらなそうに遠くを見つめる白澤の横顔へと視線を流す。
真っ白い体毛の上には幾重にも綿雪が降り積もっていて、遠目からでは何処からか雪で何処からか体毛なのか分からない程同化して既に雪だるま状態。
寒さで震える大きな体から雪の結晶がパラパラと落ちて、光に煌めいている。

「私もですよ…白澤さん」

そっと唇だけ動かした言葉は音になる事は無く、傍の春一も書類を読む事に気を取られて気付かない。もちろん、寒さに震えながら鼻を啜っているあの獣にもそれは届かない。

別に構わない。それで良い。




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帰り道の事


「ところでさ、僕が着るを選んでたらどうなってたの?」
「その時は、私が貴方の毛皮を剥いで八寒に着て行きます」
「何それ怖い!!」



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