いくじなし


ちょっとした出来心だったのだ。
お客さん用に常備しているお茶が入った茶筒に睡眠薬を混ぜた。

ほんの少量。
規則正しい生活をしている者ならあくびの一つでも誘えれば良い程度、具体的に言えば指先でちょっぴり。それがお茶に解けたとしてもたかが知れていると分かった上での些細なイタズラのつもりだった。

何故かと云えば女の子が来る約束も予定も無い時に、丁度作りたての其れが手元にあったからだ。
寝つきが悪くて困っていると相談に来ていた獄卒の女の子に処方する目的で作ったもので、最初の眠りを誘えれば十分の、初心者用のしごく軽めの睡眠導入薬。

ちょっとした出来心で、例えばそれを疲労困憊の鬼に与えたならどうなるだろう…と。ふっと沸いた衝動をそのまま行動に移してしまうくらい暇で暇でしょうがない昼下がりの事。

仕事が楽しくて仕方ないと豪語し、何日も徹夜を繰り返し肉体に蓄積される疲労を精神力だけで誤魔化しているあの仕事中毒に飲ませたなら、相乗効果であくび以上の凄まじい効果が見込めるだろうか。
それとも鬼特有の強靭な肉体と精神のなんたらで、全くの期待外れの結果になってしまうだろうか。

軽めの薬すら猛毒になる程疲弊している体に取り込まれて、予想以上の効果が出ればとてもとても面白い。

「ふふっ」

例えばそうだなぁ…。想像以上の睡魔に負けて受身も取れずに顔から床に落ちるとか。ふらふらになって思考能力が鈍って僕がしかけた言葉遊びで負けちゃうとか。
僕に醜態を晒したくないからと、慌てて店から逃げ出して道すがら行き倒れてしまうとか。

「白澤様、なんか今日はご機嫌ですね」
「え?別に普段と変わらないよ〜」

そんな事を想像しているのだから自然と口角が上がってしまうし、思わず鼻歌混じりになるのも仕方の無い事だと分かってほしいな。
あの凛と澄ました顔が、ピンと張った背筋がぐにゃりと歪む情けない様を見れたならとても気分が良いだろう。

だから、凶悪な気配が扉の向こうから漂ってきても、凶悪な金棒で容赦なく扉が破壊されようとも、今日は笑って許してやってもいい。僕って寛大でしょ。

「おっ邪魔します!!!」
「もっと静かに入って来い馬鹿力!!」

いつものように扉を破壊する勢いで入ってきた鬼に怒鳴りつつ、普段通り桃タロー君がお茶の用意を始めてくれる。
例の茶筒を手に取るのを横目で確認して口喧嘩を始めれば機嫌の悪い鬼の金棒が扉を破壊した時と同じく容赦の無くスイングで僕の頭に直撃して、しばらく暗転。

その間に、桃タロー君が出したお茶を飲みつつ兎さんのモフモフの毛並みを堪能するのは分かっているんだ。
撃沈した床に転がったまま、上下逆さまの視界にアイツが桃タロー君から差し出された湯のみを受け取るのが見える。
両手で受け取ったその手のまま、ふうふうと何度か冷ますように息を吹きかけて、口元に添えて傾ければこくりと喉仏が上下する。

「やはり桃太郎さんが入れて下さったお茶は美味しいですね」
「ありがとうございます」

馬鹿め。その中に何が入っているかなんて気づきもしないで飲みやがった。どうやら喉が乾いていたらしく、ちびちびと口を付ける動作は続けて二度三度。
匂いや味で気づかれたりなんて動物並に嗅覚が無い限り絶対にありえないし、そんなヘマを僕がやらかす訳ないからね。ざまあみろ。

「ところで、注文していた薬はどうなんですか」
「すみません、もう少しなんですけど」
「チッ…納期も碌に守れないとは…。無能な豚め」
「お前が早すぎるんだ」

笑い出しそうになる口と、嬉しさで震えそうになる肩をなんとか不機嫌に繕って立ち上がれば、薬はまだかと問うてくる。その手には未だ湯呑が握られて、ほんのりと湯気が立ち上っている。
…それを全部飲み終えるまで用意してやる訳ないだろ?と言わないのはお約束だ。

「あー、まだ頭がガンガンする」
「頭痛がご不満なら首から上を切り落してその痛みを消して差し上げましょうか?」
「怖ろしい事言うな何の解決にもなってねぇよ、この常闇鬼神!!」
「まぁまぁお二人とも」

なんとか立ち上がるまでに回復した僕に向かって親指を立てて首の辺りで横に引き…要は首を刎ねてやりましょうかという仕草をするものだから、背筋にぞわりと悪寒が走る。
向けられるその視線は1mmも笑っていない上に、アイツならやりかねないという恐怖も合わせて二重に怖い。

つい今だって骨が何か所か砕けた上に意識もちょっと飛んだんだぞ。更に追加で暴力を振るう気満々とか本当に最低だな。
僕は死なないからと言って痛みを感じない訳じゃない。それを分かった上で容赦無く暴力を振るってくるアイツは乱暴者で最悪の鬼だよ。この前は腕だったし、その前は胴体だった。その前は…ああもう、そんな事どうでもいいよね。

「ごちそうさまでした」

アイツの持ってる湯呑の中身がやっと空っぽになったんだから。

「あ、そうだ。桃タロー君、お使い頼まれてくれる?」
「今からですか?」
「うん、このメモに書いてある薬草を向こうの山に行って取ってきて欲しいんだ。場所は分かる?」
「えー…っと、ああ、これなら大丈夫です。でも鬼灯さんの薬の仕上げがまだ途中なんですけど…」
「それなら僕がやっておくから、ちょっと急に必要になってね。悪いけどお願いできるかな」
「分かりました」

今思いついたみたいに大げさな仕草をして、適当な用事をでっち上げて邪魔者を追い出した。
いや、桃タロー君は良い子だよ。僕のこんな急な注文を文句一つ言わず笑顔で引き受けてくれるとても優秀な弟子だ。決して邪魔なんかじゃない、むしろ家族みたいな大事な存在なんだけどね、今は別問題なんだよ。

「それじゃ鬼灯さん、あまり白澤様と喧嘩しないで下さいね」
「この駄獣が納期を守りさえすれば、私とて無駄な体力を使わなくて済むんですがね」
「あー、そーだねそーかもねー」
「まぁまぁ、お二人とも」

ほどほどにして下さいねと心配する桃タロー君が籠を背負って店を出て行く。その後ろ姿を見送るのは罪悪感で胸がちょっぴり痛むけど、それよりも今はアイツが気になって仕方ない。

「それで、薬は」
「黙って待ってろ」

ぴしゃりと言い切るとそれ以上はつっかかって来ない鬼を放置して、桃タロー君がやり掛けた薬の続きを手に取る。
後は混ぜたものを小分けにして包むくらい。なんだ、これなら10分もかからないじゃないか。
桃タロー君もだいぶ手際が良くなったなぁと、心の中で関心しつつ手に取ったのは全然関係無い薬瓶だ。

ちらりとアイツを窺えば、御行儀良く揃えられた両足とぴんと張った背筋。そして凶悪な視線とかち合った。
薬が効いた気配は無いけど、さぁこれからどうなるのかな。

「何か」
「…別に」

今の所、鬼の様子に変化は無い。
弱いなりに一応即効性なんだけど…ちっとも効いてないのかなぁ。やはりちゃんと適量を与えてみるべきだったかな…と少し後悔しながら作業をしてるフリを続けてみる。完全に視界から外して出来るだけ時間を稼いでも数十分がせいぜいだ。それ以上遅れて先ほどの言葉通り首をもぎ取られるのは勘弁だしね。

部屋の中に響くのは兎達が動き回る小さな音と、薬をかき混ぜる音、粉剤を紙に包む音。
他に来客の無い室内は無音に近く、鳥達の囀りだけが時折窓の外から聞こえてくる。

依頼されていた薬をゆっくり時間を引きのばして包み終われば経過時間は20分くらい。
その間に、無様に倒れる音もだらしないイビキの音も何も聞こえては来ないし、兎を膝に乗せたままの最初の態勢から全く動いていない。
足先を揃えてお行儀よく並んでいる両足はそのまま、背筋は少し丸くなったかもしれないけど。膝の上の兎を見るように顔を下にして柔らかい毛の上に手を添えている見慣れた光景だ。
カクンと頭が揺れて落ちるとか体が左右にぐらぐら揺れるとかも無し。
ああ、やっぱりあんな少しじゃ失敗だったかな。思っていた程疲労も溜まっていなかったのかもしれないし。
次に来た時にはもっと量を多くして試してやる。今度こそ醜態を笑ってやる。

「出来たぞ朴念仁。払うもん払ってさっさと帰れ」

薬の入った紙袋をカウンターに置けば、あの闇鬼神は名残惜しそうに兎とお別れして、僕にお礼という名の暴力を振るって帰ってゆくんだ。

それなのに。



「ん…?」

もう一度声をかけてみる。返答は無い。
相変わらず兎を撫でる手は動いたままだが顔は上がらない。
僕の声に反応しないなんて。もしかして。
そう淡い期待をしつつゆっくりと接近。

「…おい」

すぐ前に立っても、俯いたその顔は長い前髪に隠れてよく分からない。そっと手を伸ばし恐る恐る肩に触れる。

「……」

何度かつつくようにしても抵抗は無い。
うさぎを膝に抱いた手はそのまま。押された事で僅かにゆらゆらと左右に肩が揺れるだけ、それどころか少し力を入れて押したら簡単に倒れてしまいそうなほど危うくて。
しゃがみこんで下から見上げれば、そこには小さく呼吸を繰り返す鬼の顔。
瞼は僅かに開いているが瞬きは無い。睫の間から僅かに見える瞳孔は大きく開いたまま焦点も合っておらず、ぼんやりと何も無い場所を見つめている。
まるで体は起きてるのに、脳だけ寝てしまったような…そんな状態だ。

寝てる。凶悪な極悪鬼神が寝てる?マジで?
そういえば人間でも極限まで眠気を我慢していれば立ったままでも眠る事があるのだと聞いた事がある。もしやコイツもそれなのか。
寝たままでも兎から手を離さないとか、どんだけモフモフ好きなんだよ。

「オマエ…本当に寝てんの…?」

小さく声を掛けるが返答はやはり無い。
目の前で手を振っても、瞳孔は動かない。

(うわ!!)

思わず吹き出してしまいそうになる口を手で押さえて制す。あんな少量であの暴力鬼神が眠ってしまった。うっわ情けない!!そう腹を抱えて笑いたいのをぐっと堪えて、囁ながらガッツポーズを取った。
ここで起こしてしまうのは勿体無い。日頃受けている非礼の数々を報復するせっかくのチャンスだ。
俎板の鯉っていうんだっけ?こんな美味しいシチュエーション。

「さ、こっちにおいで」

兎の方に手を差し出して、小さな声でどいてくれるようにお願いすれば、小さなもふもふが鬼灯の手から抜け出してコチラの手へと素直に乗ってくる。
そっと床に下ろせば大きな瞳が何か言いたげに僕を見上げてくるが、人差し指を立てて口元へ持って行き”静かにね”と唇だけを動かして片目を瞑った。
大丈夫だよ。あの闇鬼神みたいな暴力での報復は僕の趣味じゃないんだから。
…さぁ、どうしよう。

今後の口喧嘩の切り札に、アイツの弱点でも探してみようか。
例えば、額に赤の油性ペンで僕と同じ模様でも書いてやろうか。
目のフチの赤い部分に豆板醤を塗ってやろうか。
鼻の穴に唐辛子を突っ込んでやろうか。
それともやっぱり、今まで僕が受けた暴力をそのままそっくり返してやろうか。

(そういえば、こんなに間近でコイツを見る事なんて無かったな)

しゃがみこんだ姿勢のままじっくりと顔を覗きこむ。嫌悪感そのままの視線とか低い罵倒とか暴力だとかが無いのは妙な心地だ。
まるでコイツを屈服させたような、そんな優越感に浸っているからだろうか。実際、僕のイタズラにまんまと引っかかったコイツは無抵抗。煮ろうが焼こうが僕の気分次第でどうとでも出来ると思えば思う程、顔が緩んで仕方がない。

膝の上に置かれた手にそっと触れてみる。
ゴツゴツした男の指は女の子とは全然違う固い感触。
日々忙しく筆を持ち、時には金棒を握り呵責を繰り返すその指は筋も太く強ばっている。

(節が乾燥してるしささくれが酷い。筆が当たる箇所に肉刺が出来てる。どんだけ仕事中毒なんだコイツは)

この状態では水に触れた時に痛いだろうに、薬も何も塗っていない荒れた指に少しだけ呆れながらもゆっくりと手の甲から指先までを往復し、滑らせるようにして触れるのは手首から肘にかけて。
胸板などは着物の上から見ても筋肉が程良くついているのが窺えるのに、そのくせ袖先から覗く肌は驚く程細くまるで女性の様に華奢だ。
日に焼ける事の無い地獄では当たり前かもしれないが、そこらの男と比べるまでも無い白磁の肌。

そっと指を滑らせて袖の下を捲り上げれば、体毛も見えないくらい薄くて、指先の荒れとは無縁のしっとりした肌理細かな手触り。
視線を上げて首筋へ。きっと其処も滑らかな感触なのだろう。そう考えればそれは簡単に欲へと変わっていく。

ちょっとだけ。もう少しだけ。
そう自分に言い聞かせて指を伸ばし鎖骨へと触れると、掌よりも温度が低い。

(気持ちいい)

さらりとした肌が動かす度に指の腹に吸い付いてくるようで、心地よさに思わず目を細めた。
鎖骨の窪みから喉仏へ。次いで指を動かして向かうのは頬、その上のかんばせ。
静かに呼吸を繰りかえる唇は小さく開いたまま僅かに覗く八重歯と、その奥に隠れた赤い舌。
下唇に親指を乗せて僅かに押してみれば弾力があり、適度に潤った柔らかな感触。

「……」

思わず両手で頬を包み込んでそっと自分の唇と重ね合わせていた。
一度だけのつもりだったのに、触れてしまえばその考えはあっさりと覆されてしまい、二度、三度角度を変えて啄んで、四度目。
頬に添えた手を耳へと滑らせて、艶のある髪に指を差し込んでみる。

「…っ」

気持ちいい。
開いた口にそっと舌を挿し込んで吸ってみたい。
このまま唇をこじ開けてその舌を引っ張り出し噛んでやれば喉を鳴らすだろうか。
お互いの唾液を交わし合って、呼吸も全部吸い尽くして乱して。この無抵抗の体を床に押し付けて、着物の下に隠れている白い肌を思う存分弄れば低い体温も上昇し、羞恥で赤く染まるだろうか。
床に押し倒してステテコを剥ぎ取って無理やり足を開かせ柔らかな太腿に歯を立てれば、きっと綺麗な痕が咲くだろう。
汗ばんだ肌を散々味わって思考回路もめちゃくちゃにしてから、熱い体内にー…。

「……ー…ん…」

そこまで考えた所で、鬼灯が僅かに身じろいだ。
閉じかけていた瞼が一度瞬きして、唾液に濡れた唇が…動く。

「…はくた…さ…」

一瞬だけ視線が合ったような気がして慌てて飛び退いた。だが覚醒はその一瞬だけだ。
動いた拍子に膝にあった手はだらしなく垂れて、体はカウンターの背へと凭れ掛かり瞼が完全に閉じる。
呼吸が深くなって、より深い睡眠へと入ってゆく気配。
それを最初から最後まで凝視して飲み込んだ生唾が、喉に絡んでゴクリと音を立てた。

「僕は、一体何を考えてー…」

完全に眠りに入った鬼を前にぶわりと熱いものが頬に集まってくる。触れた唇を袖でゴシゴシと擦る。
こんな筈じゃない。
僕はこんな事がしたかったんじゃない。
コイツに一泡吹かせようとした筈なのに。
コイツの醜態を笑ってやろうとした筈なのに。

なのに、何でー…。





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「鬼灯さん、鬼灯さん」
「……、ん」

ゆらゆらと体を揺すられて、鬼灯は目を開いた。
目の前には出かけていた筈の桃太郎が心配そうにこちらを見ている。どうやら起こしてくれたらしい。

ああ、眠ってしまったのか。そうぼんやり考えて時計を見れば、来た時間よりも随分進んでいて鬼灯は舌打ちをした。薬を受け取ったらすぐに帰るつもりだったのに、何という失態だ。

「白豚さんは?」
「俺が帰ってきた時には鬼灯さん一人でしたよ?」
「…そうですか」

眠る直前の記憶は白澤が薬を包んでいる後ろ姿。それからどうしたのかは分からない。
すぐ側のカウンターには梱包された薬袋が一つだけ置かれているだけで、声を掛けられた覚えも無いし何処に出かけたのかも不明だ。

「…チッ」

待ちくたびれて寝てしまった客を放置するなど何事だと鬼灯は舌打ちする。
恐らく眠ってしまった自分を起こす事すら面倒だったのだろう。
起き抜けに理不尽な暴力を受けるのを避けて逃げたのかもしれない。


「桃太郎さん、ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ此方こそ、お待たせしてしまってすみませんでした」
「最近忙しかったので丁度良い休憩になりました。それに…」

起き抜けの怠さはあるものの、驚く程頭はスッキリしていた。
立てかけていた金棒を肩いだ鬼灯は薬袋を袖にしまうと、申し訳なさそうな顔をする桃太郎へと頭を下げる。
本当なら帰り際もあの男を1発殴っておきたかったが仕方ない。次に会った時に2倍呵責すれば良いだけの事だ。


「それに、とても良い夢を見た気がします」



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