夜風が暖かいと感じるようになったのは長く続いた雨がようやく止んだ翌日の事であった。


 [ 梅月 ]



暦では春とは云うものの、北から吹く風はまだまだ冷たく、夜は羽織を肩にかけて出かけるのが常だった。
だが今日に限っては昼間から春と呼ぶにふさわしく、そのまま日が沈んでもその日差しを吸い込んだような風が頬を撫でるものだから、湯から上がったばかりの恋次は少々火照った体を冷まそうと、寝着と髪を拭くための手ぬぐいを首にかけただけという格好で、帰り道とは反対の普段は通らない廊下の外れまでやってきていた。

素足で踏みしめる廊下の板がきしりと音を立てる以外に、周囲はしんと静寂し、灯りすら僅かに覗く月明かりのみ。
外へとせり出す廊下の明るい所を選んで、恋次はふらふらと目的も無く歩き続ける。
その場所は仮にも何十人という使用人を抱える豪邸だというのに、先ほどから誰ともすれ違わない事と、馬鹿みたいに多い部屋数と、広大な敷地に若干の不気味さを感じるのだ。

時折撫でるように吹く風が腰まで伸びた髪を梳くってゆく。
まだまだ水分の抜けきれない髪は長さも相まって不快げに肌に絡み付いていたが、それも大して気にしていない様子の恋次は頬に落ちていた髪を耳にかけるだけで、一向に結い上げようとはしなかった。
生乾きというのもあるが、面倒なのだ。
本音を言えば、もう何もかもすっとばして眠りたいとも思う。それくらいは疲れを感じていた。

ここしばらく忙しかったからだ。ようやくピークも過ぎて、明日は久方ぶりの休みだと心躍らせていた時に、お誘いと呼べるにはいささか強引に上司の屋敷へと連れ込まれた。
だから、風呂上がりに直ぐに戻る事はせずに他人の家をだらしない格好でうろうろする事は、それに対する少々の意地返しのつもりである。無論、何の効果も無いだろうが。

宛もなく歩き、湯上がりの汗も引いてきた。待たせ過ぎて機嫌を悪くさせては厄介だし、そろそろ部屋へ戻ってやろうかという頃、ふいに鼻をかすめた香に恋次は足を止めた。

甘酸っぱい、というよりは甘ったるい。
あたりを見渡せば、塀の向こう側に花を咲かせた枝が頭一つ分ほど見えた。
月明かりに照らされて色は分からないが、枝の先までびっしりと小降りな花が咲く様から、満開はもう越えてしまったのだろう。
これほどまでに香立つ花だったろうかと疑問に思う程に強い香りだ。

普段花を愛でる趣味があまりない上に如月の忙しさにかまけて隊舎や職場周辺にも植えられている筈のそれすら視界の端にすら入らなかったし、花より団子の自分にはその後たわわに実る果実の方が身近だ。
それに花見にしろ、これから咲き始める桜の方がメジャーになっている。
今はこの花の季節だったなと漸く思い出せば、なんと不憫な花だろうと苦笑いが漏れた。

強い香りをもう一度深く吸い込む。
肺を満たすその甘い香りは吹き抜ける風と共に心地よく、こんなにも良い香りを楽しめるのならばもう少し早い時期にそれを口実にあの人を花見酒にでも誘えばよかったと少し後悔。そうすれば、少しは一緒に過ごせる時間も確保できていたかもしれないのだ。

開ききった花弁はもう後は枯れ落ちるのみ。三部咲きが見頃といわれるその花はもう見て愛でるには遅すぎる。

夜風に乾いた長い髪がさらさらと風を受けて肩を流れ落ちた。
ようやく乾いたかと首の後ろの生え際に手をやれば、そこはまだ汗と水分を含み湿っぽい。根元から持ち上げた事でひんやりと流れる風が心地良かった。

行儀悪く窓枠へと寄りかかったまま空へと視線を上げれば、雲にかくれていた月が顔を出しているのが伺える。
溜まった疲労感とともにふうと吐き出した息は白くもならず、暗闇に溶けていく。寒さに凍え人肌を求めずにはいられない冬は終わったのだ。

そのまま柔らかな床の上に横たわり愛しいあの人の体重を受け止める事を思い浮かべた。
少しの戯言を交わしながら細く長い指に己の指を絡め唇を触れ合わせる。
滑らかな肌に掌を滑らせ衣服を掻き分け、落ちてくる髪のこそばゆさに頬を緩め、これから与えられる甘い快楽を予感して先走り身を震わせる。あの何とも言えない恥じらいには何度共に過ごそうとも慣れるものではないし、さも当然の如く屋敷に連れ込まれ事に及ばれるのも正直苦手だ。
限られた時間の中で余裕無く貪るようにではなく、密やかだがたっぷりと時間をかけて睦み合う心地よさを思い出そうとしても、何故か曖昧な夢を思い出すように頼りげなのだ。




ふと、慣れた気配に顔を上げれば不機嫌な顔の恋人が廊下の真ん中で待ちかまえていた。
そっと名を呼んで笑いかければ、ますます険しい表情のその人に、少し笑う。
ああ、もう待てなかったのか。

「遅い」

謝罪の言葉を口にするものの、気持ちは全くこもっていない。
湯冷ましにふらふらと屋敷内を探索していたのが長くなっただけで、最終的にはアンタの部屋に向かおうとしていたんだ。別に逃げるつもりなんて無いのだと言い訳してもよかったが、相手を目の前にすればそれすらもうどうでも良く思えてくる。

「迎えに来て、くれたんすか」

手に持っているものに視線を向ければ、それは渋い色の羽織。当人はもう既にきっちりと羽織を着込んでいる事から、おそらくはこれは自分に与える為のものだろう。
使用人に呼びに行かせる事もせず、恋人が湯冷めしないようわざわざ気にかけて出向いてくれたのだろう。
そう惚気めいた確信が持てるのに、白哉は苦々しい顔を崩さない。
それどころか、結局その羽織を手渡される事なくくるりと背を向け歩き出してしまった。
その背中を黙って付いてゆく。

「月が、綺麗ですね」

独り言のように呟けば少しだけ緩くなる歩調。
もう一度名を呼ぶが、返答は無い。
外から差し込む月明かりに、その人の艶やかな髪がますます美しく煌めいている。
歩く動きに合わせて暖かな風がそれを揺らす様を目にする度に、丁寧に櫛の通された細く柔らかな髪を指に絡めたいと思ってしまうのは贅沢な事だろうか。

ついには立ち止まってしまったその人に合わせて、自分も停止する。振り返ったその顔は白く整いすぎて自分には眩しすぎるのだ。
ああ、もう少しその後ろ姿を眺めていたかったと不謹慎ながらそう思ってしまう。
その眼差しに見入られたら最後。全身、特に心臓が早鐘を打ち始めるから、自分ではどうしようも無いではないか。

そっと此方へ伸ばされる指先ですら細く長く美しい。キシリと音を立て引っかかる自分の髪を優しく梳いてくれる仕草すら体が強張って仕方ないのに。

そっと近づいてくる唇に、思わず目を瞑った。

「…甘い、」

すんと吸い込んだ空気。どこにも触れる事なく離れたその顔に首を傾げれば、一房掴んだ髪を優雅な仕草で鼻先へ。
伏せられた睫が長い。

「ああ、…」

甘いのは、先ほどの移り香なのだろう。
肺を満たしたあの香りが脳裏に蘇るが、それは今二人で楽しむには遅すぎる。それに、もう何処だったかすら忘れてしまった。

「…秘密、です。」

ようやく手渡された羽織に腕を通せば、ふわりと香るのは嗅ぎ慣れたその人の香り。
すぐにかき消される先ほどの花の名残を惜しいとは思わないが、共有したいと思ったのも事実。

そっと寄り添えば当然のように腰に回される腕に満足し、恋次は先ほどの発言を誤魔化すように、愛おしい恋人に唇を寄せた。




■あとがき

付き合いの長い恋人っぽく。

2012.03.30


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