妙に湿気の残る夜であった。
時折吹き抜ける風も酷く弱く生ぬるく、日が沈んだというのにまるで日の高かった昼間の木陰とさほど変わらないではないかと思えるほどの気温で、今も地面に蓄えられた地熱が湧き上がってくるような気がしてくる。



[天の羽衣]




確かに今日一日は夏も終わりだと言うのにとても暑い日であったと思い出しながら、白哉は夜の散策へと一人林道を上っていた。
あれほどジリジリと煩い蝉も今は影を潜め、どこからか鈴虫の高音色が心地よく、奥へと進んでゆくほどに涼しさを感じるようだ。

白哉が気まぐれにこの道を選んだのには訳があった。
もう少し進んだ所で脇道に反れると広くて浅い川に行き当たる。膝より上程の深さしかない川だが、底には一面に苔のついた小石が敷かれ、紅葉の時期などは水面に落ちた葉がなんとも美しい光景を見せてくれる場所である。
そして更に上った所は少し開けていて、切り立った崖の上から流れる水が滝となり池を作っていた。
こんな熱い日には涼を求めて散策の足を伸ばしてみたくなるというもので、水の流れる涼やかな音を聞きながら、白哉はその滝へとゆっくりと足を進めていた。


「……」

湿り気のある苔の付いた岩を踏み越えて、砂利道へと辿りつく。
さらさらと流れる音が耳に心地よく、歩くたびに砂利に僅かに埋まる草履の感触もそれはそれで良いものである。
白哉はふと、目的の場所には先客がいる事を悟った。
誰も来ないだろうという思い込み故か、それとも感じた霊圧が普段白哉の傍にあたりまえのように存在するものだったからか、僅かに漂う霊圧に気がついたのは随分と滝に近くなってからであった。

月明かりに反射しながら揺らぐ水面。水底は暗闇で見えはしなかったが、夜目の慣れた目には山道も水辺もそれほど暗くはなく、白哉はふと大きな岩の上に無造作に掛けられた衣服に目をやった。

黒い着物と、それに隠れるようにして覗く襦袢。
立て掛けられた刀と、白い手拭い。
それが誰もものであるかなど、衣服を確認する前に白哉には優に想像がついた。
見慣れすぎた刀。見慣れすぎた衣服。感じ慣れすぎた霊圧。
何故この場にいるのかなど、理由や経緯はもはやどうでも良い。
偶然にもこの時にこの場所を選んで、その相手と鉢合わせた事に、白哉は酷く満足げな笑みを浮かべた。




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「…ぶはぁっ」

水しぶきを上げて水面下から顔を上げた恋次は、顔に纏わりつく自分の長い髪をかき上げながら、大きく息を吸った。
冷たい水面から掬い上げた両手の水で顔を洗い、長い手足を水中に手放すようにして上を見上げる。

此方は気まぐれに外に出た鍛錬の帰りに偶然見つけた水場で、汗を流そうと池に入った所である。
それほど大きくも深くもない池であったが、滝から落ちる水は透き通っていて、月明かりに照らされた水底は砂地になっており、時折小さな魚が光を反射してキラリと光る様は、夜であってもこの場所が美しく景観の良い場所である事が伺えた。

立ち上がると一番深い場所であっても胸まで程しかないものの、山から流れる水は夏といえど冷たい。長い事水に浸かっていた体温は随分と下がっていたが、それでも熱と汗にまみれて鍛錬していた頃と比べれば此方の方がすっと気分が良かった。

首だけ水面に浮かべるようにして漂いながら上を見れば、切り立った崖の上に浮かぶ月が丁度白い雲の間から覗いた所。
満月と半月の間というべき少しかけて歪んだ月は、それでも夜の明かりにしては十分過ぎるほど明るく、滝から時折上がる大きな水しぶきがその光に反射している。



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さて、そろそろ帰ろうかと池の淵まで来た所で、恋次は違和感を覚えた。
岩の上に投げた筈の衣服が無い。
確かにこの岩の筈だったのにと目を凝らしてみても、衣服どころか愛刀さえ無くなっている。
服だけならば狸か狐にでも悪戯で持っていかれたのだろうかと思う事もできるのだが、刀まで無いとなると、一体どうしたものか。

慌てて周辺を探してみても、やはり見つからない。
今の姿といえば褌さえも付けぬ真っ裸という現状で、どうやって隊舎へと帰れば良いのかと若干途方に暮れた所で、ようやく恋次は気が付いた。


「…いつから其処にいたんすか」

振り返った先は今の場所とは間逆の滝のふもと辺り。
切り立った岩が少し窪んで影になっている場所を睨み付け、恋次は声を掛けた。

「随分と楽しげに沐浴をしておったようなのでな」

乾いた岩に腰掛けて余裕げに答えた男も、普段よりも幾分寛いだ様子である。
それが妙に癪に障り、恋次は大股で再び池へと入った。池の淵を回って行けば良いのだが、大回りするよりは池を直進した方が早かったからだ。

「返して下さい。服と刀、取ったの隊長でしょう」
「何のことだ」

さらりとしらを切る白哉が楽しげに見える。
恋次は湧き上がりそうなる怒りを誤魔化すように顔にかかる濡れた髪を耳へとかけ、そのままに腰に手をやると呆れ顔でどうしたものかと小さくため息をついた。

どうせ、気づかなかった自分が悪いとでも言うのだろう。突然の思いつきによる悪戯ほどたちの悪いものは無い。
どう言葉を選んで促せば、すんなり衣服を返してくれるのだろうかと恋次は胸の内で思案している。

余裕あるその男はそっと身を屈めると、白い手を水面へとそっと沈めた。
水を掬うでも無く、ただ遊ばせるように何度か動かすだけ。


「返してほしいか」
「あたりまえです」

濡れた指先から雫が落ちる。
ついと白哉の視線がそこから此方の方へと戻った事に恋次は居心地の悪さを感じたが、目を反らすわけにはいかないと睨み付けたまま白哉の言葉を待った。
隠すものは何も無いが、それでも恥らってはいられない。

「現世では、天から降りて水を浴びていた美しい女の衣を盗んだ男は、返せと懇願する女を脅し妻に娶った伝説があるそうだ」

月明かりに浮かび上がる水面とその中に堂々と立つその男を見下ろし、白哉は目を細める。
無駄の無い体と、その肌を這う刺青。下ろされた緋色は月明かりを受け燻るような赤黒さ。
真っ直ぐ自分へと向けられる怒りが、妙に艶帯びて見えるのは何故だろうか。

「つまり、…俺はアンタに嫁がなきゃならねぇのか?」

何を戯言を、と言わんばかりに恋次は不快げな顔をした。
無言で肯定してやれば更に嫌な顔をするのが白哉には楽しくて仕方ない。

「くだらねぇ。刀はともかく、俺にとっちゃ着古してる死覇装なんざいつ破れても良いモンだし。まぁ、すっ裸で隊舎に帰ろって話ならちいと困りますけど」

髪から滴る水が肌を伝い落ちる。
長い時間冷たい水に浸かっている恋次にとっては夏といえど夜の気温は冷えた体の体温を奪うには十分で。
できる事ならば早く水から上り、体を拭いて服を着なければ風邪をひきかねないのだが、それでもこれ以上戯れようとする白哉に懇願する事も憚られた。
そうなると、結局は白哉の話に乗る他は無い。

「嫁にならなきゃなんなかったその女は、結局どうなっちまうんですか?」

「子を成したが衣を見つけた後は天へ逃げ帰ったとも、絶望で命を落としかけた女を哀れに思った男が結局返したとも、色々な説があるようだが」

ますますくだらねぇ。そう恋次は鼻で笑った。
これが最終的に相思相愛になったというならば、まぁ恋話の一つとして聞いていられるのに。これではその女にとって損な事ばかりではないか。
だが現実的に考えればそういった悲劇など、どこかしこ転がっている。ようは弱みを握られた方が負けなのだ。


「ならば今の状況が衣服などでは無く、お前が命よりも大切なものであればどうだ」

先ほどの答えではお気に召さなかったのか、再び問う白哉に恋次は今度こそ大げさに溜息をついて見せた。

「それを、アンタが言うのか」
「例えばの話だ」

例えばと言われずとも、自分の大切なものはアンタが持ってるくせに。
だがそれは喉の奥までで留めて口には出さない。
今夜だって誰を思い、誰を超えたくて鍛錬していたか、アンタはよく知ってるくせに。
知っていて、自分の言葉を待つ男が何だか可笑しくなって、恋次は笑った。

「…もし、そうなっちまったら、俺は子が出来るぐれぇ悠長に待ってられねぇな」

濡れた髪から落ちる水滴が首筋を伝う。
唇は既に色を失い、冷え切って鳥肌の立つ肌には其れさえ身震いする程の寒さであったが、それでも恋次は強気に言い放った。


「毎日でも、アンタを殺しにいってやるさ」


射るような視線の、何と好戦的な事だろう。
圧倒的不利な立場であっても、遜ったりせず牙を剥く。何と強い眼差しであろう。
白哉は自分の中にある何かが満足という感情で満たされてゆくのを感じていた。
後方へ隠していた死覇装を前の男へと投げると、立ち上がる。

今夜の散策は予期せぬ事により、とても良い夜であった。

「風邪をひかれては困るからな。後で此方へ寄れば湯のひとつでも貸してやろう」

そう言うや否や瞬歩で消え、残された恋次は投げられた着物を掴んだまま立ち尽くす。


「へっくし!」

全く、今夜はとんだ夜になったものだ。
汗を流すどころか本当に風邪をひいてしまいそうだ。

鼻を啜りながら手早く着物に袖を通してゆく間も、ぶつぶつと悪態をつく。
それでも、先に戻った隊首室で湯を用意して待っているだろう白哉を思い、恋次は苦笑いを浮かべた。


「せいぜい、たっぷりと暖めてもらいますかね」





見上げた月は、相変わらずの美しさだ。







...END。



■あとがき

マッパで仁王立ちする恋次はとても漢らしいと思うのです(笑) 一応恋誕祝いに書きました…が、どこにも恋誕要素が見当たらない結果に。



2009/08/31


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