噎せ返る菊の香り。
走り抜ける列車の音。
見下ろすアンタ。
ああ、そんな事か。
そう呟いた俺に、あんたは心底呆れ返ったような顔をしてご丁寧に溜息まで吐きやがった。
だけど、そんなムカつく態度が妙に嬉しくて、最後に笑って目を閉じた。
どこからが終わりで、どこからが始まりなのか。そんな事はどうだっていい。
俺の世界を止めたのも動かすのも、全部アンタなんだ。
[ケーニヒスベルクの橋渡し]
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ガァン!!
派手な音が室内に響き渡る。それから少し遅れて後頭部に感じる酷い痛みに目を開くと、次第に鮮明になってゆく視線の先には普段よりも遠くなった天井が映った。
見えるのは視線の上にあるべきなのに何故だか天井に向けて生えてる片足と、腹の半分まで捲れあがったシャツ。
段々と覚醒してゆく頭でぼんやり、ベットから落ちた状況を確認する。
…痛ぇ。
寝苦しい夜でも無いのにべっとりと額に貼りつく汗を拭うと、恋次は大きな溜息をついた。
額だけでは無い。全身にぐっしょりと、まるで魘されたかのような尋常ではないほどの汗が、爽やかである筈の朝に体中にへばり付いて不快で仕方がない。
眠気の残る体を捩り、辛うじて端に引っかかっていた足も床へと落とすと、フローリングの硬さと冷たさが体に堪える。
横目で確認した壁掛け時計の時刻は起床する予定時間よりも少し遅く、鳴る筈の…いや、鳴っていただろう目覚まし時計は、少し凹んだ壁の下でその動力源である電池とそれを隠していた筈のカバーが無残にバラバラになり床に見事に散乱。若干ガラスに皹すら入っている。
恐らく其れを壁に投げたは良いが勢いをつけ過ぎバランスを崩して転倒したのが今の状況の結果だとしても、自分の寝相の悪さと寝起きの不機嫌さを棚に上げて音が鳴るだけのアナログな機械なのだから、もう少し頑丈に出来ていないのかと頭の中で思った。
「…だる…」
もう時間が無い。早い所シャワーを浴びて仕度をしなければ学校に遅れてしまう。のっそりと成長期で伸びすぎた体を起こすと、体中が軋んだ。
シャワーを浴びて雑に体を拭き、用意してあるシャツへと袖を通し、昨日穿いて投げていたジーンズを拾い上げる。
髪はまだ湿ったままだが時間が経てば自然と乾くだろう。それよりも早く出なければ。
体中まだ痛む。じんわりじんわり全身に走るその痛みを気にしない事にして仕度もそこそこに、家を出た。
駆け足に路地を抜けて駅へ。
息の切れる体で腕時計を確認して一息大きな深呼吸。
慌ててホームを見渡すと、先頭の一番端っこ壁側辺り。視界に入る見慣れた人影。
長身、白い肌。長い黒髪。温度の無い瞳。
美しい、人。
あぁ今日も会えた。それだけの事に安堵する。
朽木さん
名前を聞いたのも最近の話だ。
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「あぁ何でもっと頑丈にできてねぇんだ!」
その日も朝から最悪で、ぶつけた目覚ましの音と落下した衝撃で無理やり起きた。
間に合わない時間と分かっていても無理やり合わせようとラッシュで押し寄せる人ごみを強引に掻き分けるようにして走って階段を駆け上がりホームへと飛び出す。
鳴り響くサイレンと横目に見える線路の砂利とレールに、心の中でガッツポーズと勝利の雄叫びを上げて、まずは大きく息を吸い込むべく口に溜まった唾を飲み込む。
首筋を伝う汗を拭い頭に巻いたバンダナを外して顔を流れる汗を拭いつつ、走り続ける足を止めて来るだろう列車を振り返り近づく車体を確認。
間に合った。
そして今まで必死の全力疾走で前屈みだった体を正して見上げた、その先。
ホームの誰もいない筈の一番前、壁際。
拭った筈の汗が夏の暑さで噴出して再び首を流れてゆく、この熱い暑い日。
見るのも暑苦しいくらい真っ黒なスーツ着て襟元さえも乱さずに、その人は此方を見ていた。
まるで、だれか殺しに行くんじゃねぇかってくらい鋭い眼孔で、真っ直ぐに此方を見ていた。
その対峙の、その一瞬で。
噎せ返るような暑さも、響く電車の音も何もかもがその一瞬で停止したような。
そんな感覚に、俺は目を逸らす事ができなかった。
「名は」
「へっ?」
「…名は何だ」
「……」
「ぁ…阿散井…恋次」
「何故ここにいる」
「へ?…俺…今から学校…に…」
「そうか」
交わした言葉はそれだけ。
射殺されるかと思うほどの眼力にびびって迂闊に答えてしまった俺も相当アホだと思うんだけど、そん時はどこかの先生かPTAかと思ってて。次いで聞かれるだろう髪の事に「これは地毛だ」と説明説得する事にどれくらいの時間と手間が掛かるだろうかと身構えてみる。
けれど、ふいと反らされた視線はもう交わる事無く、その人はさっさと人塵の中に消えていった。
最初は、そんな感じ。
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「っス」
「……」
小さく頭を下げて一番端の椅子に腰を下ろす。
ちらりと視線だけ動かしただけのこの人は本当に無口な部類に入るらしい。
因みに先生でもPTAでも無いらしい朽木さんは、いつも此処に立っている。
少なくとも朝俺が列車に乗らなきゃいけない時間までは。
「…あの」
そして沈黙に耐えきれず口を開くのは決まって俺から。
「暑いっすね」
「大した事ではない」
返される言葉も何時もの通り。
最初に交わした言葉も確かコレ。此が今じゃ挨拶の様になってちょっと笑えた。
「朽木さんって…この近くに住んでるんすか?」
「……否」
「何してる人?」
「……」
「家族は?」
「……妹が、一人」
「マジ?!可愛い?」
「お前が知る必要は無い」
「…ケチ」
答えたくない事には無反応だけど、ぽつりぽつり返してくれる。
嫌われてはいないんだろう。そう思って話しかける…何つうか、ちょっとした興味。
それともう一つ。
「また、…増えたんスね」
朽木さんの少し横。
錆びついて塗装の剥げた柱の下に無造作に重ねられているのは菊の花。
かなり萎れたものから真新しいものまで。風に乗り届く強い香りはどこかこの駅と対照的でもあり、そして何があったのかを想像できる証。
死者への、餞
少し前、この駅で事故があったらしい。
誰が犠牲になったのかは記憶にないけれど、供えられてる花を見れば察するくらいは十分。
綺麗に包装された花は美しく、悲しむ人の数だけ其れは増えてゆき。美しい包装紙が風に揺られカサカサと音を立てる。
それを見下ろす朽木さんは、いつも少し寂しげに見えた。
…知り合い…とか…?
何となくいつも此処に来る意味を勘ぐって、なるべく聞かないようにして何時も眺めるだけ。
チラチラと視線を向ける俺と違って朽木さんはずっと真っ直ぐ先を見てる。
何つうか、…ずっと、先の方。
ざわめきと雑音の犇めくホームの端、響き渡る列車のサイレンが俺達の沈黙を破った。
「…それじゃ」
立ち上がり、俺は電車へと向かう。
視線だけコッチに向けて見送ってくれる朽木さんに軽く会釈。
また、明日。
そう無言の約束を。
扉が閉まった車内。振り返ったホームには、もう朽木さんの姿はない。
響くサイレン。
動き出す列車。
供えられた菊だけが、風に靡き揺れていた。
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