▽過去拍手お礼文


幾分と冷たい風が首筋を撫で、その予想を外れた寒さに身震いをした。
前を向けばもう誰も歩いていない路地がずっと先まで続いている長い直線の裏道。
空は陰り、先ほどまで長く伸びていた自分の影すらもう見えくなった。まだかろうじて水平線を緋色に染まらせている太陽ももうその光すら届かなくなりつつある。
そういえば随分と日が短くなったものだ。冷え始めた掌を暖めるようにして袖にしまい、星が見え出した空を見上げた。

月は白い雲に隠れているらしく、ぼんやりと月光を遮ったまま輪片すら出てはこない。
抜けるような暗闇の遙か上空にうっすらと主張し始めた星の輝きは、徐々暗闇に慣れてきた視界をなんとなし明るく照らしてくれるような錯覚をさせる。
耳を澄ませてみても自分の足音以外に聞こえてくるのは夜虫の囁きのみ。まこと誰ともすれ違う事はおろか、視界にすら入らないとは珍しい。きっと今頃大通りでは夜店の屋台が店始めをした頃、皆ごぞって集まり大いに繁盛している時間帯ならば、こんな路地裏など見向きもされないのかもしれない。
そんな事を思いつつ歩を進めればどこからか漂うのは夕餉の香り。

柔らかく灯る部屋の灯りと、飯の炊ける香りに誘われて、思い出したかのように空腹を主張する腹の現金さに少しだけあきれた。
昼餉をたらふく、それに午後の休憩の際には他隊から回ってきた茶菓子まで腹に納めたではないか。それも甘いものだったからという理由で食べなかった上司の分も合わせて二人分。

ふうと息を吐き出せばまだ吐き出す息は白くは曇らない。
という事は、まだまだ気温は高いと思っても良い程。きっと慣れてしまえば適温の内に入るだろうに、生暖かな夜の空気に慣れていた体には少しだけ堪えるのだ。
過ごしやすい季節はあっと言う間に過ぎ、直ぐに凍える冬がやってくるのは駆け足のように早くて。付いていく事すら精一杯なのだ。

そういえば、とふと立ち止まる。
あの人は今何をしているだろうか。
事務的な会話以外での私用な会話をここ最近しただろうか。
指先ですら触れる事がなくなってどれだけ経っただろうか。
すっかりと暗闇に包まれた時間帯。人気の無い道を歩くこの静けさのように、二人で密やかに行う散策や密事はいつが最後だったろうか。
立ち止まり空を見上げればようやく出たのか、薄い月が頼りなく浮かんでいた。

ああ、そういえばそうだと思えば思うほど、たまらなく会いたくなってしまったではないか。
そっと目を閉じてみれば耳元で囁くその声も、首筋を撫ぜるその指先の滑らかな感触も、全てが暑い夏の夜の思い出で止まってしまっている。
今この寒々とした空気の中、響くその声と指先の感触。触れる唇の味はどうだったろうか。

「会いたいです」と。
それだけを理由に訪ねていったら、どんな顔をするだろう。
恐らく良い顔はしない事だけは確かだろう。後にも先にも今は忙しいのだ。仕事と食事以外はほぼ寝ていたいと思っていた自分以上に急がしいあの人の疲労は相当なものだろう。下手をすれば機嫌悪く追い出されかねない。
それでも、その様を想像しただけで少し胸の奥がむず痒く、顔が嬉しさで綻ぶのは何故だろうか。
そっと指を絡める様を想像するように目を閉じる。
あのひんやりとした滑らかな指先が頬に触れ首筋へと流れ、そして…。
無意識に唇に触れた自分の指先はかさついてざらりと皮膚を撫ぜた。
あの人のは、こんな感触ではないのだ。

「……」

懐から携帯を取り出して耳に当てる。
手慣れた操作で呼び出せば、コール音。

1回、2回、3回。


「お疲れ様っす!…あっ、あの…もう帰りました?」


控えめに切り出せば何か問題でもあったのかと問い返される。本当に仕事真面目な人だなと喉の奥で苦笑した。

さぁ、言ってしまおうか。







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